危機における理論的意識
三木清

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)憤《いきど》おったり

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)善く[#「善く」に傍点]導く
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 思想の問題は今や思想の危機の問題として現われている。人々は到るところ、あらゆる機会において、思想の危機について語りかつ叫ぶ。しかし彼らは自己の語りつつあるもの、叫びつつあるものが何であるかを理解しない。いな、みずから理解することなく、理解しようと欲することなく、語りかつ叫ぶということがそれ自身また思想の危機のひとつの特徴である。思想の危機の叫びのうちに表現されるところのものは、理論的意識の欠乏であり、まさに「思想の貧困」である。けだし事物の本質を明らかにして思想を発展せしめることがかく叫ぶ者の目的でなく、彼らの目的はかえって正反対のものである。思想の危機を叫ぶことによってあたかも思想を窮迫せしめ、空虚ならしめ、かくて思想そのもののためでなく、むしろまったく他の意図のために謀ろうとすることが彼らの目的である。このときにあたって真実に思想を求める者は、彼らの叫びに迷わされ、驚かされ、恐れさせられることなく、自己の理論的意識をいよいよ鋭利ならしめ、果敢ならしめねばならぬ。そのためには思想の危機が本来いかなる意味のものであるかを明瞭にすることがなによりもまず必要である。
 思想の危機とは、これを純粋に理論的に見るならば、一定の思想が自己の反対の思想へ転化してゆくことを意味する。この転化そのものはその思想にとって危機として現われる。思惟が一定の思想を真理としてそれに固執し、それを永久に自己同一的なものとしてどこまでも維持しようとするとき、この固執され、固定された自己同一性は、自己がまさに在るところのもの、すなわち一面性として、制限性としてみずからを現わすに到る。換言すれば、その思想は自己の偏見であることを顕わにするのである。しかるに一面性と制限性とは、あたかも一面性として、制限性として、虚偽である。かくて最初の真理は虚偽であることが分る。この自己批判によって一定の思想はその反対のものへ移ってゆく。この推移が思想の危機であり、したがって危機的とは批判的ということである。かくのごとき危機はまことに思想そのものにとって価値あるものでなければならぬ。なぜなら、それによって初めて思想は運動し、発展し得るからである。思想はその対立者によって否定されると同時に、このものの媒介によって自己の一面性と制限性とを脱して自己を止揚する。抽象的なものは具体的となる。かかる過程を通して対象は初めて全面的に把握されるに到るのである。このようにして危機こそ思想の富を作るものであり、生命をなすものである。危機のないところには、ただ凝固と死がある。
 もしそうであるならば、真理を求める思想家にとっては、思想の危機はまさに歓迎すべきものである。自己の思想を否定するもの、それに矛盾するものが現われるとき、彼はいたずらに悲しんだり、恐れたり、憤《いきど》おったりすることをしない。彼はそこに自己の思想の批判の契機を見出し、喜んでこの契機を捉え、それを媒介とすることによって、自己の思想を発展せしめ、具体的ならしめることを知っているからである。彼の思想家としての活動がこのとき最も活動的となる。思想家たる彼はこのとき最も生き甲斐を感ずるであろう。彼の思想は固定したもの、死んだものから、運動するもの、生命あるものとなったからである。真実に人生を生きようと欲する者は、生活における危機の経験がかえって人生を豊富ならしめ、一層真実ならしめることを知っている。あたかもそのように、真理を追うてやまぬ者は、思想の危機がまさしく思想を具体的ならしめ、一層真理ならしめることを理解する。かくて、思想の危機の必然性とその意味とを認識せる人にとっては、危機はもはや危機として、単なる危機としては現われないであろう。必然の洞見は自由である。思想の危機の必然性を透察した思想家は自由なる思想家であり、彼の前には危機はいわゆる危機としては存在し得ないのである。ところで、思想を発展するものとなし、しかもこの発展が自己に矛盾するものへの転化によって、すなわち危機を通して行なわれると考えるのは、弁証論者である。弁証法的思惟は思想の危機を現実的に克服する道を我々に教える。それ故に我々は言うことができる、思想の危機が叫ばれるときにあたって、ただ一つ現実的なる理論的意識は弁証法的思惟である。
 しかるに抽象的思惟にとっては、思想の危機は克服されることなくしてどこまでも危機としてとどまる。真理の普遍妥当性――それは抽象的な永遠性である――を信奉する者、真理の自己同一性――それは形式的な不変性である――を主張する者、総じて真理が矛盾を媒介として発展する生命であることを把握しない者、かくのごとき人々は、自己の思想に反対し、対立する思想の現われるとき、それはただ彼の思想にとってのみ危機であることを忘れて、かえってそれが一般に思想そのもの、真理そのものの危機であるかのごとく見なし、いたずらに思想の危機を叫ぶのである。彼らにとって否定は単なる否定であり、矛盾は単なる矛盾の意味しかもたない。彼らは抽象的思惟に固着して言う、真理は真理であり、虚偽は虚偽である。そして彼らは他人だけが誤謬と錯誤に陥る者であって、自分はこれに反して最後究極的な、絶対決定的な真理の所有者であると考えている。このような人々が、自己の思想に矛盾する思想に出会ったがために、思想の危機を叫べば叫ぶほど彼らは思想そのもの、真理そのものをいよいよ抽象的ならしめ、非実現的ならしめ、かくてそれの生命を奪って死滅せしめるのである。思想そのもの、したがって彼ら自身の思想をも危機に沈ませる者は、思想の危機を単なる危機と見ることしかできぬ彼らである。思想の本質的なる相対性を認識している者こそかえって思想の生命の発展の絶対性を肯定する者である。かかる人間が自己批判的であるに反して、彼らは独断論者である。彼らは自己の思想を絶対化し、永遠化する。彼らはおそらく人類歴史のなお端緒にある者であり、したがって今後彼らの思想を訂正するであろう人間は、彼ら自身がその思想を訂正した人間に比し、その数において比較にならぬほど多いであろう、ということを彼らは思ってみない。思想の危機の叫びをもって我々に向って来るのはいつでもこのような独断論者である。しかるに独断論とともに我々は純粋に理論的な領域から他の領域へ移されているのを見出す。我々は独断論が本質的には理論的な立場でないことを発見するであろう。純粋に思想する者である限り、何人も自己批判的ならざるを得ない危機に際して、思想の危機の問題に関して何故にかくも独断論者がなお存在するであろうか。

 私はこれまで思想を主として真偽という方面からのみ考察して来た。真理と虚偽は、哲学上の用語法に従うならば、思想の「価値」である。あたかも美醜が芸術に属する価値であり、善悪が道徳のになう価値であるように、真偽は思想の有する価値である。しかもそれはこのものにのみ固有な価値である、と哲学者は考えている。したがって或る思想は真であったり偽であったりするが、我々はそれを善い思想であるといったりまたは醜い思想であるといったりすることを許されない。近代の認識論はこのように説くにもかかわらず、現実の生活においては、我々は絶えず、一定の思想を善い思想であると呼び、または悪い思想であると称している。それが現実である。むしろ真なる思想、偽なる思想という言葉よりも、善い思想あるいは悪い思想という言葉を人々は一層多く実際生活のうちでは用いているように見える。例えば、かの思想善導という語をとって考えてみよう。思想善導というのは、真なる思想へ人々を善く[#「善く」に傍点]導くということでなく、かえって善い[#「善い」に傍点]思想へ人々を導くということを意味している。もしそれが真理へ向って善く誘導するということであるならば、それはそれが今現実にとっているような形態をとって現われ得ないはずである。いかなる思想が真理であるかはただ研究を俟《ま》ってのみ決定され得ることであるが故に、その場合には、ひとが思想善導の名のもとに思想の自由なる研究を取締ったり、禁止したりするばかりでなく、さらに進んで思想の研究そのものに対する興味を種々なる方法でほかへそらそうなどとすることは出来ないはずである。しかるに思想善導が実際においてはこのような形態のものであるとするならば、そこで問題となっているのは、なんら思想の真偽ではなく、かえって思想の善悪であるのでなければならぬ。すなわち、或る思想は取締られ、圧迫さるべきであると考えられるのは、それが悪い思想であり、危険な思想であると、人々の見なしているのによるのである。このように現実の生活の中においては、思想は真偽という理論的価値のほかになお善悪というがごとき規定を具えている。これは明らかである。私はかかる規定を思想の「価値」と区別して思想の「性格」と名づけようと思う。思想の性格を表現する言葉には、善、悪以外に、危険、穏健、反動的、過激的など、その他のものがある。思想は現実においてすべて性格的である。否、我々の日常の生活にあっては、真理と虚偽なる思想の価値は蔽い隠されてしまって、思想はすべて性格的なものとして生きているのがつねである。
 ここに注意すべきは、思想の価値と性格とが必ずしも相応しないということである。善い思想が必ずしも真なる思想であるわけでなく、危険な思想が必ずしも偽なる思想であるわけではない。しかしながら実際生活においては、思想の価値規定は埋没されて認識されることなく、思想は単にその性格に従ってのみ理解されているが故に、まさしくこのことから容易に、人々が善い思想をもって直ちに真なる思想であると考えるに到る、ということがしばしば生ずる。善い思想だから、それは真でなければならぬ、という風に、無意識的にであるにせよ絶えず推論されている。かくのごときことは真理ということをのみひたすらに問題とすべきはずの学者の間にあってさえ存在するのである。彼らは自己の思想を真という価値においてでなくかえって善という性格において意識していることがしばしばである。それだからこそ或る者は彼の思想が理論的に反駁されればされるほど、理論的にその欠陥が指摘されればされるほど、かえってますますこれを弁護するに到る。彼はこの弁護において或る種の道徳的義務を感じていよいよ興奮する。彼の議論は義憤に変る。学者は今や憂国の志士として現われる。彼は自己と反対の思想を有する者をもって何らか危険な者、下劣な者、不道徳な者であると見なすに到る。我々は我々の経験において独断論者が最も多くの場合このような現象形態をとって出現するのに出会うであろう。このとき叫ばれるのはいつでも思想の危機である。思想の危機の叫びは、かくのごとく、現実においては思想の性格ということに最も多く関係している。思想の危機の叫びのうちに表現されるものは、思想における理論的なものでなくて性格的なものである。
 思想の性格というのはひとつの実践的な概念である。それは思想が思想である限りの思想に属するのでなく、思想が人間社会に働きかける関係についての規定である。私が思想の性格の名のうちに数えたところの善悪という概念が道徳的、実践的な概念であることがそれを示している。もしそうであるならば、思想の性格の中には社会の構成そのものが反映されているのでなければならぬ。この社会が階級的構成のものであるとするならば、思想の性格は階級的な言葉であるはずである。社会の階級的構成は支配階級と被支配階級とに分れている。そしてこの支配被支配の関係が思想の性格としての善悪をおのずから定める。換言すれば、支配階級の利益を表現する思想は、思想として、善き思想であり、そして反対に被支配階級に仕える思想は、思想として、悪しき思想である。すなわち、一定の階級の社会上の優
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