越がその階級の思想の性格上の優越を規定する。支配階級の思想が支配思想であるからである。したがってこの階級の社会的位置が安定している限り思想の危機は現われない。思想の危機の出現するのは、社会における階級の間の対立、そして矛盾が尖鋭化し、もはや蔽うべからざるものとなったときである。このとき支配階級は、自己の社会的位置の不安と動揺とを知り、自己にとって悪しき思想の出現を直接に思想の危機として感ぜざるを得ない。社会上の危機が思想の危機として表現されるのである。危機にあるのは思想そのものではなくて、かえって社会そのものなのである。悪しき思想の排撃によって維持さるべきものは思想そのもの、真理そのものでなく、まさに支配階級なのである。それだから思想の普遍妥当性を説くことはこの階級の永遠性を主張する意味をもって来る。それだから従来の思想の弁護はこの階級の弁護となって来る。思想の危機の叫びのうちに表現されるものは階級的なるものであって、思想的なるものそのものではない。否、思想の危機が叫ばれれば叫ばれるほど思想は反対にますます空虚になってゆく。それは階級的独断論の叫びであるからである。そして善い思想と真なる思想とは合致するのでなく、かえって背致しているからである。思想そのものの立場からいえば、社会における批判的な階級、すなわち新興階級の有する思想がかえって批判的であり、それ故に一層真理であり、したがって悪しき思想の出現こそまさに歓迎すべきものであり得る。それにもかかわらずこのとき、支配階級が思想の危機を叫ぶことが必要になればなるほど、この階級はますます危機に迫っているのであり、したがって自己をあらゆる手段をもって維持することがいよいよ必要となっているのであるから、この階級を代表する思想もまたそれ故にいよいよ独断的となるのである。
 独断論は最も多くの場合階級的な意味のものである。しかるに独断論は、まさに独断論として、思想的には無力であるほかない。思想の危機に際会しては、独断論は必然的に最も独断的とならざるを得ないから、思想的にはいよいよ無力となり、かくて独断論は思想そのものの立場から他のものへ転化してゆく。最初には、思想に対するに思想をもってすべきであると主張した独断論は、思想の危機が激成し、拡大するに立ち到るや、今は、あらゆる実践的な手段に訴えることとなる。独断論において、理論的なものは実践的なものに必然的に転化する。しかるにこの転化は、この場合、実に理論そのものの否定を意味する。思想の危機が本来階級の危機であるからである。独断論が本質的にはなんら思想そのものの上に立つのでないからである。このようにして、一定の階級によって階級的な立場から、実践的に思想の否定が行なわれるに到って、思想の危機はまさしく思想そのもの[#「そのもの」に傍点]にとっての危機となる。

 我々は思想の危機にあたって理論的なものが実践的なものに推移してゆくのを見た。しかも同時に我々はそこにおいて理論そのものの否定が実行されているのを知った。かくのごとき場合においては、理論的意識はもはや単なる理論的意識としてとどまることが出来ない。独断論における理論より実践への転化がまさにそのことを教えるのである。実践を理論から分離することが純粋に理論的意識を維持する所以であるとする見方は、思想の危機にあっては、なんら現実的なる理論的意識であることが出来ぬ。思想の危機にあっては、このような見方こそかえって理論的意識そのものを死滅させることとなる。それはこのとき、思想そのものにとってはむしろ「危機の思想」であるのである。ここに私はかかる非現実的な危機の思想として現われている一、二のものを挙げておこう。
 そのひとつは形式主義である。形式主義者は考える。理論は理論としていつでも形式的なものである。したがってそこには階級性などはあり得ない。彼らは階級を超越した理論を求める。しかるに理論は、それが現実的な理論として、現実の社会と連絡をもちそれに働きかけ得るものである限り、現在の階級社会ではつねに階級的な性格をもたざるを得ないから、そこで彼らは非現実的な理論を意識的に求めることになる。そして彼らは彼らの理論の非現実性に、普遍妥当性または永遠性などというがごとき美しき札を張りつける。例えば、彼らは、普遍妥当的な真理があるということを論理的に証明し得ると称して、――相対主義は自己矛盾に陥る、なぜなら相対主義をいやしくも意味あるように主張し得るためにはこの主張そのものが絶対性をもたねばならず、したがって少なくともひとつは絶対的な真理がある、という。かくのごとく形式的には、真理の普遍妥当性は証明されることが出来よう。絶対的な真理はある、しかしそれでおしまいだ。その真理が内容的には何であるかを我々は知ろうと欲しているのである。形式主義は形式を説くことによって我々の認識を豊富にすることなく、形式に固執することによってかえって我々の認識を貧困ならしめる。形式主義は最も多くの場合我々の認識活動を停止せしめることを我々に命ずる。かくしてそれは我々の具体的な理論的意識を満足させることなく、思想の危機に際してはそれは、我々の認識を窮乏ならしめる論理であることによって、かえって反動的な役割を演ずる。――他のものは自由主義である。今日、自由主義者は行為の自由と研究の自由とを区別する、そして思想研究の自由は認めるもそれを行為において実現することはこれを認めることが出来ぬ、と考える。しかるにかかる自由主義は現在の社会において我々はこれを徹底し得るであろうか。なるほど、危険思想の研究が自由に許されているとする、そこでいまひとりの者がこの思想を研究しているとする、しかし彼はまさに危険思想の研究者なる故をもって、会社でも、銀行でも傭ってくれず、否、大学においてさえ使ってくれない。研究の自由は彼にとって貧困の自由を意味する。彼の研究の自由はかたっぱしから彼の行為の自由によって否定されてゆく。行為の自由を得ようと思えば、彼は研究の自由を否定しなければならぬ。自由主義は階級社会の中では現実的に存在し得ないのである。
 思想の危機にあたっては、理論的意識は実践と結びつくことによってのみ現実的であることが出来る。このとき実践はもとより単なる理論の否定ではない、それは独断論者のことである。実践は理論にまで高められ、理論は実践にまで深められ、かくて理論と実践との弁証法的統一がなければならぬ。理論と実践との弁証法的統一の上に立つ理論的意識のみが、思想の危機に際して、ただ一つの現実的なる理論的意識である。しかるにかくのごとき理論的意識は今や社会的に危機にある階級、すなわち支配階級の中では獲得されることが不可能である。彼らは危機を絶対的なる危機として受取らざるを得ないが故に、弁証法的に危機を思惟することが出来ない。この危機を弁証法的に把握し、そこにむしろ未来の発展に対する展望を認め得るものは、未来を約束されているところの新興階級である。
 これが思想の危機の理論である。
[#地から2字上げ]――(一九二八・一二)――
[#地付き](『改造』一九二九年一月号)



底本:「現代日本思想大系 33」筑摩書房
   1966(昭和41)年5月30日初版発行
   1975(昭和50)年5月30日初版第14刷
初出:「改造」
   1929(昭和4)年1月号
入力:文子
校正:川山隆
2008年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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