かえって人生を豊富ならしめ、一層真実ならしめることを知っている。あたかもそのように、真理を追うてやまぬ者は、思想の危機がまさしく思想を具体的ならしめ、一層真理ならしめることを理解する。かくて、思想の危機の必然性とその意味とを認識せる人にとっては、危機はもはや危機として、単なる危機としては現われないであろう。必然の洞見は自由である。思想の危機の必然性を透察した思想家は自由なる思想家であり、彼の前には危機はいわゆる危機としては存在し得ないのである。ところで、思想を発展するものとなし、しかもこの発展が自己に矛盾するものへの転化によって、すなわち危機を通して行なわれると考えるのは、弁証論者である。弁証法的思惟は思想の危機を現実的に克服する道を我々に教える。それ故に我々は言うことができる、思想の危機が叫ばれるときにあたって、ただ一つ現実的なる理論的意識は弁証法的思惟である。
 しかるに抽象的思惟にとっては、思想の危機は克服されることなくしてどこまでも危機としてとどまる。真理の普遍妥当性――それは抽象的な永遠性である――を信奉する者、真理の自己同一性――それは形式的な不変性である――を主張する者、
前へ 次へ
全17ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング