ったり偽であったりするが、我々はそれを善い思想であるといったりまたは醜い思想であるといったりすることを許されない。近代の認識論はこのように説くにもかかわらず、現実の生活においては、我々は絶えず、一定の思想を善い思想であると呼び、または悪い思想であると称している。それが現実である。むしろ真なる思想、偽なる思想という言葉よりも、善い思想あるいは悪い思想という言葉を人々は一層多く実際生活のうちでは用いているように見える。例えば、かの思想善導という語をとって考えてみよう。思想善導というのは、真なる思想へ人々を善く[#「善く」に傍点]導くということでなく、かえって善い[#「善い」に傍点]思想へ人々を導くということを意味している。もしそれが真理へ向って善く誘導するということであるならば、それはそれが今現実にとっているような形態をとって現われ得ないはずである。いかなる思想が真理であるかはただ研究を俟《ま》ってのみ決定され得ることであるが故に、その場合には、ひとが思想善導の名のもとに思想の自由なる研究を取締ったり、禁止したりするばかりでなく、さらに進んで思想の研究そのものに対する興味を種々なる方法でほかへそらそうなどとすることは出来ないはずである。しかるに思想善導が実際においてはこのような形態のものであるとするならば、そこで問題となっているのは、なんら思想の真偽ではなく、かえって思想の善悪であるのでなければならぬ。すなわち、或る思想は取締られ、圧迫さるべきであると考えられるのは、それが悪い思想であり、危険な思想であると、人々の見なしているのによるのである。このように現実の生活の中においては、思想は真偽という理論的価値のほかになお善悪というがごとき規定を具えている。これは明らかである。私はかかる規定を思想の「価値」と区別して思想の「性格」と名づけようと思う。思想の性格を表現する言葉には、善、悪以外に、危険、穏健、反動的、過激的など、その他のものがある。思想は現実においてすべて性格的である。否、我々の日常の生活にあっては、真理と虚偽なる思想の価値は蔽い隠されてしまって、思想はすべて性格的なものとして生きているのがつねである。
 ここに注意すべきは、思想の価値と性格とが必ずしも相応しないということである。善い思想が必ずしも真なる思想であるわけでなく、危険な思想が必ずしも偽なる思想であるわ
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