けではない。しかしながら実際生活においては、思想の価値規定は埋没されて認識されることなく、思想は単にその性格に従ってのみ理解されているが故に、まさしくこのことから容易に、人々が善い思想をもって直ちに真なる思想であると考えるに到る、ということがしばしば生ずる。善い思想だから、それは真でなければならぬ、という風に、無意識的にであるにせよ絶えず推論されている。かくのごときことは真理ということをのみひたすらに問題とすべきはずの学者の間にあってさえ存在するのである。彼らは自己の思想を真という価値においてでなくかえって善という性格において意識していることがしばしばである。それだからこそ或る者は彼の思想が理論的に反駁されればされるほど、理論的にその欠陥が指摘されればされるほど、かえってますますこれを弁護するに到る。彼はこの弁護において或る種の道徳的義務を感じていよいよ興奮する。彼の議論は義憤に変る。学者は今や憂国の志士として現われる。彼は自己と反対の思想を有する者をもって何らか危険な者、下劣な者、不道徳な者であると見なすに到る。我々は我々の経験において独断論者が最も多くの場合このような現象形態をとって出現するのに出会うであろう。このとき叫ばれるのはいつでも思想の危機である。思想の危機の叫びは、かくのごとく、現実においては思想の性格ということに最も多く関係している。思想の危機の叫びのうちに表現されるものは、思想における理論的なものでなくて性格的なものである。
 思想の性格というのはひとつの実践的な概念である。それは思想が思想である限りの思想に属するのでなく、思想が人間社会に働きかける関係についての規定である。私が思想の性格の名のうちに数えたところの善悪という概念が道徳的、実践的な概念であることがそれを示している。もしそうであるならば、思想の性格の中には社会の構成そのものが反映されているのでなければならぬ。この社会が階級的構成のものであるとするならば、思想の性格は階級的な言葉であるはずである。社会の階級的構成は支配階級と被支配階級とに分れている。そしてこの支配被支配の関係が思想の性格としての善悪をおのずから定める。換言すれば、支配階級の利益を表現する思想は、思想として、善き思想であり、そして反対に被支配階級に仕える思想は、思想として、悪しき思想である。すなわち、一定の階級の社会上の優
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