ゲーテに於ける自然と歴史
三木清
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)懐疑は固《もと》より
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(例)対象的|思惟《しい》
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(例)※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ンケルマン
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一
ゲーテの歴史に対する関係は単純に規定し得ぬものを含んでゐる。或る者はこの問題に否定的に答へ、ゲーテは歴史的意識を有しなかつたと主張する。そして彼等はその証拠としてゲーテが歴史について折にふれて語つた言葉の中から種々のものを挙げることができる。この関係で知られてゐるのはルーデンとのゲーテの対話である。彼はこの若い歴史家に向ひ、歴史に対する彼の不信、軽蔑をすらも隠すところなく述べた。歴史的伝来物から我々が事物の真実の姿を受取り得るものと彼は信じない。かくの如き懐疑は固《もと》より理由のないことではなからう。歴史は伝来物即ち史料といはれるものの上に立たねばならぬ。然るに殆《ほとん》ど凡《すべ》ての史料は不純にされてゐる、それはつねに党派的で、つねに作為的で、つねに或は熱中により、或は盲目な憎みもしくは愛によつて、だから私欲によつて無意識的に歪《ゆが》められてゐる。そればかりでなく、それは故意の虚言や良心なき欺瞞によつて、曲飾や中傷のために意識的に捏造されてゐる。よしんばさうでないにせよ、歴史家はつねにあまりに遅くやつて来る。彼等が始めるとき、判断は既に作られ、既に出来上つてをり、彼等は知らず識らずこの判断によつて先入見を抱かさせられ、それを反駁しようと試みる場合ですら、彼等はなほそれの束縛から離れ難い。また、ひとは我々に出来事の現実的な記録を供しないであらう。記録の多くは生々した記憶の既に消え失せた後に初めて作られたものである。しかもこれらの記録は、必ずしも、つねに主要事を伝へるものではないのである。歴史の基礎をなす史料が純粋でなく、完全でもないといふことは、このやうにして争ふことができぬ。然しながら近代の歴史学は、歴史的批評の方法を確立し発達させることによつて、史料の不純性と不完全性とに打勝たうと努力した。今日我々は歴史的批評の熱心な、忍耐的な、そして方法的な仕事の中から、如何に輝かしい成功がもたらされたかを知つてゐる。批評は云ふまでもなく批評として破壊の方面を含まざるを得ない。ところでゲーテはニーブール風の歴史的批評が破壊的であるといふ故をもつて、これを軽蔑した。もしも批評によつて偉大な伝説的な事実が否定されたならば、どうなるのであるか、と彼は尋ねる。「古人がかかるものを創作するに足るだけ偉大であつたとすれば、我々はそれを信ずべく十分に偉大であるべきであらう。」このやうに彼は歴史に対して、殊に批判的従つてまさに科学的であらうとする歴史学に対して、不信を表明したのである。「凡ての歴史は不確かで曖昧である。然し誰かがあなたに或ることが疑はしいと内々で知らせるなら、あなたはその人をすぐ却《しりぞ》けてよろしい。」と彼は他の場合に語つた。歴史はその拠つて立つ伝来物が不確かであると云つて、彼は歴史を信じない。そして歴史的批評が確かな事実を決定しようとすれば、批評は破壊的であると云つて、彼は歴史学をさげすむ。かやうにしてゲーテは歴史に対し全然離反的関係に立つてゐるかの如く見える。
然るに、いまもし他の方面から眺めるならば、問題は全く違つた姿をとつて現はれて来る。嘗《かつ》てランケは云つた、「ゲーテはまた大歴史家になることもできたであらう。けれどもシラーは歴史家たるの天分を有しなかつた。」と。偉大なる歴史家ランケのこの証言に対し、我々は信頼を寄せてはならないであらうか。寧ろ反対に、ランケの言葉は単なる仮定にとどまらなかつた。ゲーテは実際にいくつかの勝れた歴史的伝記的作物を残してゐる。『※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ンケルマン』、そして何よりも『詩と真実』、これは第一級の伝記と見られ得る。「既にこの業績のためにゲーテはまた、よし彼にはもと歴史的感覚が欠けてゐたにせよ、ドイツの偉大なる歴史家のうちに数へらるべきであらう。」とグンドルフも云つてゐる。ゲーテはまた色彩論史を書いた。これは「真にその名に値する精神史の最上の模範」として評価される。色彩論のこの歴史的部分において彼は、後にディルタイが精神史の目標として意識し且つみづから歴史家として到達しようと企てたところのものを、断片的に、けれど原理的には既に完全に仕遂げたのである。もし彼の歴史的作物をかくの如く価値付けることが正しいならば、ゲーテの歴史に対する関係は積極的に打建てられなければならない。それは外面からでなく、内面から、彼の精神の本性と活動との特質からして理解されねばならぬ。理論でなく業績がゲーテにおいてこのことを要求する。そして単に彼の歴史的伝記的作物の内在的価値からばかりでなく、更に彼の与えた影響の方面からしても、我々はゲーテの歴史に対する関係のうちに或る内面的なもの、積極的なものが含まれてゐたことを十分に察知し得るであらう。ゲーテは彼の愛好者、研究家たちを教育し、彼等を立派な歴史家に仕上げるにあづかつて力があつた。※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]クトル・ヘーンの場合、ディルタイやグンドルフなどにおいて、さうであると云はれよう。或はまたシュペングラー、チザルツの如きもそれぞれ自己の歴史の方法のゲーテに対する関連を説いてゐる。かくてその業績及び影響の方面から見て、ゲーテの精神の本質と活動とのうちには歴史に対する或る親和的なもの、積極的なものが含まれてゐたと考へられる。
そこで問題を一層深め、ゲーテの歴史に対する関係を彼の全精神、全世界観の連関の中から示さうとするならば、今度は却《かえっ》て反対にこの関係における離反がいよいよ本質的に、いよいよ内面的に現はれて来るかのやうである。ゲーテの世界観における根本概念はまさに自然であつて、歴史ではなかつたのでないか。グンドルフは彼をスピノザと共に、自然汎神論者と称し、ヘルダーが歴史汎神論者であつたのに対立せしめてゐる。ゲーテはシュトゥルム・ウント・ドゥラングの運動を経験した。個性的なものの強調はこの運動の重要な要素であつた。彼はヘルダーから影響を受けた。ヘルダーはその生成の大いなる観念によつてドイツにおいて歴史的意識を有した最初の人であつた。それにしてもゲーテにおける根本概念は、もつとどこまでも自然であつたのでなからうか。青年ゲーテは彼の『ゲッツ』を「戯曲化された歴史」と呼ぶ。然るにこれの背景をなしたのはルソオ的な自然の思想と見られ得、このものは新興市民階級の政治的意識と結び付いてゐたが、それが非歴史的な観念であつたことは云ふまでもない。ゲーテが古典的人間として成熟するに従ひ、歴史に対する疎隔は益々顕はになつたやうである。グンドルフによると、ゲーテのイタリア旅行は彼に二つの否定的な結果、即ち一方歴史に対する、他方政治に対する、決定的な離反をもたらした。これらのものの嫌悪は、ゲーテの本性のうちにもともと存してゐたのであるが、イタリア旅行によつて自覚されると共に基礎付けられるに至つた。この見方は尤《もっと》もあまりに一面的であると云はれよう。その第二部においてファウストはまさに社会的実践家として現はれており、またひとは『※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ルヘルム・マイスター』の中から社会的政治的思想を読み取るに困難でない。然しながら、古典的は本来どこまでも歴史的と相背反するのではなからうか。その手法はグンドルフと甚だ相違するにせよ、シュトリヒも同じく古典的と歴史的との乖離《かいり》を説いてゐる。シュトリヒは歴史への相反する関係のうちに浪漫的と古典的とのひとつの明確な対立点を見出す。浪漫主義が歴史に対し親和的であつたに反し、古典主義は歴史に対して真に敵対的な態度をとつた、前者が特殊な時間の感情をもつて浸潤せられてゐたに反し、後者は無時間的な持続を、ゲーテは原型を、シラーは法則を求めた、と彼は論じてゐる。けれども古典的人間としても、ゲーテの精神とシラーのそれとの間には或る本質的な相違があつた筈である。誰よりもシラー自身がこれを意識し、かの一七九四年八月二十三日付のゲーテへ宛てた有名な書簡の中でこれについて見事に述べてゐる。そしてこの相違は丁度、ランケの云つた如く、歴史に対する二人の精神の相反する関係を基礎付けるのではなからうか。或はゲーテにおける古典主義は何等か浪漫主義を包括するに至らなかつたであらうか。一般にドイツの古典主義は古典主義としても浪漫的色彩を多分に含み、特にゲーテの『※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ルヘルム・マイスター』の如きは単に古典的でなく、十分に浪漫的ですらある。それだからと云つて、我々はゲーテの世界観における根本概念が嘗て自然から歴史へ移つたことがあると考へることを許されない。かの比類なきロマンのうちに好んで描かれたのは、ヘーンの語を借れば、何よりも「人間生活の自然形態」であつた。もし自然と歴史とが相対立する二つの根本概念であるならば、ゲーテにおける発展は、その自然概念そのものにおける発展であつて、自然概念から歴史概念への移動乃至転化ではなかつたのである。古典的といふこともそれ自身の意味における自然概念を基礎とするのであつて、このことはギリシア思想とキリスト教思想とを対照することによつて明瞭に理解されよう。然しながら、もしまたゲーテが汎神論者であつたとすれば、汎神論はまさに汎神論として、その基礎の上では自然と歴史とは鋭い対立をなし得ず、却て両者は連続的融合的に考へられるのほかないから、たとひ彼がいはゆる自然汎神論者であつたとしても、彼はなほ或る仕方で歴史に対するつながりを有することができたであらう。丁度、反対に歴史汎神論者といはれるヘルダーが、歴史において特に自然的要素を重要視し、現代の人文地理学の発達を促すこととなつたやうに、自然汎神論者といはれるゲーテが今日、自然科学に対してよりも却て歴史学に対して特殊な、顕著な影響を及ぼしつつあるといふことは、興味がなくはない。ゲーテにおける自然概念は、その青年時代のルソオ的な自然概念から、古典的な自然概念を経て、晩年における最も含蓄的な自然概念にまで発展した。とりわけ彼はその晩年深い情熱をもつて自然研究に従事した。そして歴史学が今日ゲーテに負ふ方法上の新しきものは、特に彼のこの時期の自然哲学的研究のうちに含まれてゐる。さうだとすれば、少くとも彼の晩年の自然概念には歴史と内面的に交渉する或るものがあつた筈である。我々はこのやうな自然概念の特殊性のうちにそれの歴史に対する特殊な関係を見なければならない。それによつて我々はゲーテが単なるスピノザ主義者にとどまらなかつたことを知り得るであらう。代表的な自然汎神論者たるスピノザは歴史に対して何等の関係をも含まないに反し、ゲーテには歴史への通路が開けてゐた。然しそれにも拘らずゲーテにおける根本概念が依然として自然であつて歴史でなかつたことを考へるならば、そこにはまた或る制限と限界とが存するのでなければならぬ。
かくてゲーテは歴史に対し一面親和的に他面敵対的に、両重の関係に立つてゐたといふことが推察されよう。既にゲーテと歴史の問題は、単純にゲーテにおける歴史の問題であり得ず、却てゲーテにおける「自然と歴史」の問題でなければならない。そして我々の研究はおよそ次のやうな意味を有するであらう。一、我々はそれによつて現実的な歴史的意識が相矛盾する二つの契機を含む弁証法的構造のものであることを示す
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