ーテは原型を、シラーは法則を求めた、と彼は論じてゐる。けれども古典的人間としても、ゲーテの精神とシラーのそれとの間には或る本質的な相違があつた筈である。誰よりもシラー自身がこれを意識し、かの一七九四年八月二十三日付のゲーテへ宛てた有名な書簡の中でこれについて見事に述べてゐる。そしてこの相違は丁度、ランケの云つた如く、歴史に対する二人の精神の相反する関係を基礎付けるのではなからうか。或はゲーテにおける古典主義は何等か浪漫主義を包括するに至らなかつたであらうか。一般にドイツの古典主義は古典主義としても浪漫的色彩を多分に含み、特にゲーテの『※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ルヘルム・マイスター』の如きは単に古典的でなく、十分に浪漫的ですらある。それだからと云つて、我々はゲーテの世界観における根本概念が嘗て自然から歴史へ移つたことがあると考へることを許されない。かの比類なきロマンのうちに好んで描かれたのは、ヘーンの語を借れば、何よりも「人間生活の自然形態」であつた。もし自然と歴史とが相対立する二つの根本概念であるならば、ゲーテにおける発展は、その自然概念そのものにおける発展であつて、自然概
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