゙によつてテュケーと呼ばれた。このものは本来的な運命ではなく、寧ろ非本来的な運命であり、本来的な運命はデモーニッシュなものである。デモーニッシュなものも或る意味では偶然的なものであるけれども、然しそれはテュケー即ち外的な偶然でない。外的世界は固《もと》より我々にとつて単なる偶然ではなく、却て必然的なもの、強制的なものを含んでゐる。かくの如き外的な必然もしくは強制をゲーテはアナンケーといふ語をもつて現はした。デモーニッシュなものも或る意味では必然的なものであるけれども、それはアナンケー即ち外的必然ではない。アナンケーも固より運命のひとつの形態であるが、然しそれは非本来的な運命の形態であつて、本来的な運命即ちデモーニッシュなものの形態ではないのである。
 かくて我々はデモーニッシュなものの概念を現実的な歴史の概念の欠くべからざる要素として獲得し得るとしても、それはまさにかかるものとして上に述べたが如きゲーテの根本思想とは明かに一致し得ないものを含むであらう。従つてそれはゲーテにとつて当然哲学的に深められ、彼の根本思想と調和され、統一さるべきものでなければならなかつた。そして我々は彼の詩[#ここから横組み]”Urworte――Orphish“[#ここで横組み終わり]をもつてかやうな統一を最もよく表現せるものとして理解することができやう。ゲーテはもと※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ンケルマンの美的観念を通じてギリシア的古代についての明朗な形象を形作つてゐた、この形象の本質的な要素は、オリュムピアの輝ける神々の世界の「高貴な単純さと静かな偉大さ」であつた。然るに一八一七年十月九日付で彼はクネーベルへ宛て、彼がヘルマン、クロイツァ、ゼガ、ヴェルカー等の神話学者により「オルフィク的闇」の中にまで陥つたといふことを書いてゐる。これらの神話学者の仕事はその発展においてシェリングの『サモトラケーの神々』についての論文から、バコーフェンの『古代世界の女性支配』、ローデの『プシュヘー』そしてニイチェの『悲劇の誕生』にまでつらなるものである。云ふまでもなく、「かの憂鬱な秘密」をそのままにしておくことはゲーテの本性にふさはしからぬことであつた。彼は「漠然とした古代を再び精粋化し」、「死んだ文句を自分自身の経験の生命性から再び生新ならしめた」のである。ところでオルフィク的根源語としてゲーテ
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