トメフィストフェレスはデモーニッシュではない。ところでこれらの規定はそれをもつて我々が本来の運命的なものを最もよく規定し得るものではなからうか。ゲーテによれば、デモーニッシュなものは先づ個人に結び付いて現はれる。然し凡ての個性的なもの、特性的なものがデモーニッシュなのではなく、寧ろそれは歴史的に重要なものにおいて出会はれるのがつねである。それは「好んで重要な個人に、殊に彼等が高い地位を有する場合、結び付く。」「人間がより高く立つてをればをるほど、それだけ益々多く彼はデモンの影響のもとに立つてゐる。」ゲーテは個々の人間について、例へばフリードリヒ大王、ペテロ大帝、ナポレオン、カール・アウグスト、バイロン、ミラボオなどをデモーニッシュと呼んだ。デモーニッシュなものはこのやうに特にいはゆる世界史的個人において顕現する。然しそれは単に個々の人間においてのみでなく、出来事においても経験される。ゲーテは彼とシラーとの際会をかかるものと考へた。「かやうにして私のシラーとの知り合ひには全く或るデモーニッシュなものが支配してゐた。我々はもつと早くも、もつと晩《おそ》くも際会することができた。然るにそれが丁度、私がイタリア旅行を終へそしてシラーが哲学的思弁に倦き始めた時代であつたといふことは、重要なことであり、二人にとつて最も大きな効果のあることであつた。」そればかりでなく、デモーニッシュなものは更に社会的なものとしても経験されるのである。即ちゲーテはかの自由戦争について、「一般的な窮迫と一般的な侮辱の感情とが或るデモーニッシュなものとして国民を捉へた。」と云つてゐる。我々のいふ「事実」としての自然的なものは単に個人的なものでなく、また社会的なものである。そして我々はそれが個人的としては「ライデンシャフト」に、社会的としては「パトス」に伴ふといふ風に区別することもできやう。
このやうにしてデモーニッシュなものは特に歴史と関係をもつてゐる。それは自然的なものであると云つても、それなくしては歴史の概念も現実的に構成され得ないやうな歴史における自然的なもの、即ち運命的なものを意味した。またそれは自然的なものであると云つても、外的世界に属せずして、却て内的自然として捉へられた。外的世界も我々にとつて或る意味では運命的なものであり、ゲーテもそのやうに考へた。然しそれはダイモーンと云はれずして、
前へ
次へ
全31ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング