然形態」である。ヘーンの美しい言葉を借れば、「これらの形態は単純で直接的であり、快活であると共に真面目で、喜劇的でも悲劇的でもない、それは最も遠い古代と最も近い現代とを結合し、実にそれは高等な動物世界と人間世界とに共通である。凡ての特殊なものは、かやうにそしてこの基礎の上で観察されて、容易にそして抑止なしに普遍的なものへ解消する、それはこのものによつて絶えず繰返して引戻される。風習や社交的秩序の諸要求は単に自然的な生活の諸過程として現はれる、それの支配は判定されるのでない、それは感ぜられない、それは凡てのものを、さうあるほかなく、それに反抗することは無意味であるやうに、いとも静かに包むのである。」かくの如き態度がノ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ーリスをして『※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ルヘルム・マイスター』に不満を抱かせた。そこには奇蹟的なものがない、それは散文であり、「市民的家庭的物語」に過ぎない、と彼は考へた。ゲーテの心は歴史の領域においても人間的本性における普遍的なもの、恒常なもの、自然的なものに向つたが故に、いはゆる歴史的或は政治的事件に対して多くの興味を感じなかつた。それらのもののうちには或る無理なもの、香具師《やし》的なものが含まれてをり、「誤謬と強力との混淆物」と彼には思はれた。「私は世界史のことを意に介するほど年寄つてゐない、それはおよそ最も不合理なものである。此の人または彼の人が死し、此の民族または彼の民族が滅ぶかは、私にとつてはどうでもよいことだ。それを意に介するとすれば、私は馬鹿であらう。」と老年のゲーテはフォン・ミューラーに語つてゐる。彼の捉へたのは時間存在としての人間であるよりも空間存在としての人間であつた。ゲーテに比してはヘーゲルも時間の哲学者であつたと見られやう。「彼の直観及び方法そのものの形式は単に排他的な時間であつて、同時にまた寛容的な空間でない。彼の体系は従属及び継起を知るのみであつて、並列及び共在の何物も知らない。」とフォイエルバッハはヘーゲルの思想を、シェリングの同一哲学と対照して評した。この意味ではゲーテはヘーゲルよりもシェリングに一層近く立つてゐた。然るに空間と時間とは自然と歴史とを区別する最も根本的な表徴である。そこで我々はゲーテについて時間の問題を考察してみよう。

        三

 人口に膾炙
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