つて「誤謬《ごびゅう》と強力との混淆物」と見えた。彼の直観は歴史的なものにおいて自己に好ましく、ふさはしき対象を見出し得ない。このものは既にあまりに多くの素材、あまりに少い形式を含んでゐる。歴史は、それが普遍的なもの、常住なものを現はしてゐる限りにおいてのみ、彼の興味を惹くことができた。或る時彼はエッケルマンに向つて語つた。「イギリスの歴史は詩的描写にとつてすばらしいものである、なぜならそれは或る立派なもの、健全なもの、それだから繰返されるところの普遍的なものであるから。フランスの歴史はこれに反して詩に適しない、なぜならそれは再びやつて来ないひとつの生の時期を現はすから。」かくの如く歴史のうちに恒常なもの、繰返すものを求める心も、固より或る種の歴史家にとつては縁のないものではなからう。上に云つた如く歴史において直観の渇望を充たさうとしたブルックハルトは書いてゐる。「歴史哲学者たちは過去のものを我々発展したものに対する対立及び前階として観察する、――我々は繰返すもの、恒常なもの、テュプス的なものを、我々のうちにおいて共鳴するもの、理解し得べきものとして観察する。」然しながら、恒常なもの、繰返されるものは、本来歴史的でなく、寧ろ自然的なものでないか。まことにゲーテの世界観の根柢をなしたのは自然の概念であり、自然の生産物として歴史的なものもゲーテを関心せしめたのである。歴史的人間的なものは、彼がそれを自然的なものとして表象し得た限り、彼の興味を惹いた。従つて我々がゲーテにおけるテュポロギーについて語るならば、それは特殊の意味を含まなければならない。ひとはそのことを、例へば、ゲーテの『※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ルヘルム・マイスター』とヘーゲルの『精神の現象学』とを比較することによつて理解し得るであらう。もしも前者を伝記と見るならば、後者もひとつの伝記、ほかならぬ世界精神の伝記である。ヘーゲルの現象学も一の最高の意味におけるテュポロギーであつた。そこに叙述されたのは意識の諸形態 Gestalten des Bewusstseins 即ち意識の発展における種々なるテュプス的な段階であつた。そしてそれらはヘーゲルにおいては意識の歴史形態であり、その材料も多くは思想の歴史から取つて来られている。然るにゲーテが好んで描いたのは「人間生活の自然形態」、「我々の種族の常住な自
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