《かいしゃ》する『自然』についての小論の中で、ゲーテは云ふ、「過去も未来も自然は知らない。現在はそれの永遠である。」このやうにゲーテにとつて時間は現在であり、現在はまた永遠を意味する。彼は直観の人間としてただ現在を見、そして現在のみが彼には時間の果てしなき経過のうちにおいて本来実在的であつたのである。それ故に彼は時間の停止することなき「流れ」に対して現実的な感情を有しない。時間の流れから直接に生れ、我々が追憶と呼ぶところの感情をゲーテは却《しりぞ》けた。彼は嘗《かつ》てミューラーに次のやうに話した、「私はあなたの意味での追憶を何等認めない。我々の出会ふ或る偉大なもの、美しきもの、重要なものは、外部からして初めて再び追憶され、いはば狩り取られねばならないのではない。それは寧ろいはば最初からして我々の内部に織り合はされ、これと一つになり、かくて永久に形成しつつ我々のうちにおいて存続し且《か》つ創造しなければならない。」また彼は他の人に、「ただ永遠なもののみが我々にとつてあらゆる瞬間において現在的であり、かくて我々は過去の時間について悩まない。」と書いてゐる。彼には過去も苦痛とはならず、未来も不安の種とはならぬ。或は彼は、彼自身の云つた如く、事物の永続的な諸関係を取扱ふことによつて自己のうちに永遠を作り出さうとしたのである。然しそのことがどうであれ、永遠は無時間的もしくは超時間的であらう。そして歴史的なものはその本性上時間的であるとすれば、ゲーテにはもと歴史的意識が存しなかつたやうに考へられる。
この点において浪漫主義は著しい対照をなしてゐる。それはその特殊な時間の感情のためにとりわけ歴史的であつたものの如くである。そしてアダム・ミューラーを始め、近代の歴史学が浪漫主義の中から乃至はその影響のもとに発達したといふことは周知の事実に属する。「時間に対する感覚、歴史に対する才能」は幸ひである、とノ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ーリスが云つたとき、彼は浪漫主義の基調を言ひ表はしたのである。最大の幸福において浪漫主義者たちは時間の限りなき「流れ」を体験した。彼等は無時間的に持続する現在といふものを知らず、却《かえっ》て時間の無限に生成する旋律を感じた。あらゆる遠きもの、過去及び未来の遠きものが彼等を誘惑する。言ひ換へれば、浪漫主義とつねに結びついてゐたのは、時間について
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