がら、走って来た息切れと、怒りとで、言葉が出なかった。ただ、心の中では
(何を、吐《ぬ》かしゃあがる)
と、叫んでいた。小藤次にとって、士分になったのは、勿論、得意ではあったが、岡田利武という鹿爪《しかつめ》らしさは、自分でも可笑《おか》しかった。そして、自分では、可笑しかったが、人から
「利武殿」
とか
「小藤次氏」
とか、呼ばれるのには、腹が立った。軽蔑され、冷笑されているように聞えて、上役の人々からそう呼ばれるのはとにかく、軽輩から
「小藤次殿」
などと、呼ばれると
「面白くねえ、岡田と呼んでくんねえ」
と、わざと、職人言葉になった。
若い者が、じりじり得物を持って、威嚇《おど》しにかかるのを、手で止めて
「手前《てめえ》、誰だ」
と、小藤次は、十分の落ちつきを見せていった。
「仙波小太郎」
「役は?」
「無役」
「無役?」
往来の人々が、職人の後方へ、群がってきた。小藤次は、近所の人々の手前、この小生意気な若侍を、何んとか、うまく懲さなくてはならぬように思った。
齢は、小藤次より、二つ三つ下であろうが、身の丈は、三四寸も、高かった。蒼ざめた顔に、笑を浮べて、鯉口を切ったまま、小藤次の眼を、じっと、凝視めていたが
「御用か」
「用だから、来たんだ。手前、さっきの人間の手を折ったな」
「如何にも――」
「如何にもって、一体、何うするんだ。人間にゃ、出来心って奴があるんだ。出来心って――つい、ふらふらっと、出来心だ。なあ。それに、手を折って済むけえ。納得の行くように、始末をつけてくれ、始末を――始末をつけなけりゃ、俺から、大殿様へ御願えしても、相当のことはするつもりだ。人間の出来心ってのは、こんな日和《ひより》には、ふらふらと起るものだ。それに、手を折るなんて――」
「ふらふらっと、出来心じゃ」
小藤次の顔が、さっと赤くなると
「何っ」
と、叫んだ。職人が、じりっと、一足進み出た。
「出来心だ?――出来心で、人様の手を折って――じゃあ、手前、出来心で、殺されても文句は無えな。馬鹿にするねえ、この野郎、人の手を折っときゃあがって、出来心だ? 出来心が聞いて呆れらあ」
「親方、やっつけてしまいなせえ。野郎の手を折りゃ、元々だ」
職人が、喚いて、得物を動かした。
「猫、鳶に、河童の屁」
と、通りがかりの男が大きい声をして、人々の後方から覗き込んだ。
「除《ど》きな」
と、人々の肩を押分けて、前へ出て来た。人々が、振向いて、男を見て、笑った。
「よう、先生っ」
と、見物の一人が叫んだ。
「南玉《なんぎょく》、しっかり」
「頼むぜっ」
南玉は、麻の十徳を着て、扇を右手に握って
「今日は、若旦那」
と、小藤次に、挨拶をした。小藤次は、振向いて、南玉の顔を見ると、一寸うなずいただけで、すぐに、小太郎を睨みつけた。
「今日は」
小太郎は
「やあ」
と、答えた。桃牛舎南玉という講釈師で、町内の馴染男であった。小太郎の隣長屋にいる益満休之助のところへよく出入しているので、知っていた。
「喧嘩ですかい、ええ?」
南玉が、こう聞いたのに返事もしないで、小藤次が
「おいっ、何うする気だ」
群集が、どよめいて、南玉の立っている後方の人々の中から、庄吉が、土色の顔をしてのめるように出て来た。職人が、振向いて、庄吉の顔から、左手に光っている短刀へ、ちらっと、目を閃《ひらめ》かして
「若旦那っ、庄吉が――」
庄吉は、職人の止めようと出した手を、身体で掻き分けて
「さあ、殺すか、殺されるか、小僧っ」
南玉が、両手を突き出して
「いけねえ」
と、叫んだ。
「庄っ、待てっ」
小藤次が、周章《あわ》てて、庄吉の肩を押えた。
「待て、庄公」
同じように、職人が、肩をもった。
「手前なんぞの、青っ臭えのに、骨を折られて、このまま引っ込んじゃ、仲間へ面出しができねえや――若旦那、止めちゃあいけねえ。後生だから――」
庄吉は、乱れた髪、土のついた着物をもがいて、職人の押えている手の中から、小太郎へ飛びかかろうとした。
「無理もない。大工が、手を折られちゃ、俺が舌を抜かれたようなもんだからのう――小旦那、どうして又、手なんぞ、折りなすったのですい」
南玉が、聞いた。小太郎は、微笑しただけであった。
「放せったら、こいつ」
と、庄吉が叫んで、一人の職人へ、泣顔になりながら、怒鳴った。
「だって、お前、お役人でも来たら」
「来たっていいよ。放せったら――」
庄吉は、口惜しさと、小太郎の冷静さに対する怒りから、涙を滲ませるまでに、興奮して来た。二人の職人が、短刀を持っている手を、腕を、押えていた。
「放せっ――放してくれ、後生だっ」
庄吉は、泣声で叫んだ。
「話は、俺がつける。庄吉」
小藤次は、こういって、職人に、眼で、庄吉をつれて行け、と指図した。
「庄公、落ちついて――取乱しちゃ――」
「取乱す?――べらぼうめ――放せったら、こいつ、放さねえか」
庄吉は、肩を烈しく揺すって、一人を蹴った。
「とにかく、ここで、話はできねえ、俺んとこまで、一緒に来てくれ」
小藤次が、こういった時、群集の後方から、大きい声で
「仙波っ、何をしている。寛之助様、お亡くなりになったぞ」
と、口早に叫んだものがあった。
小太郎も、小藤次も、その声の方へ、眼をやった。群集の肩を、押|除《の》けているのは、益満であった。
小太郎は、益満の顔を、じっと見ながら、庄吉を無理矢理に押して行く職人の、後方を、益満へ足早に近づいて
「何時?」
と、叫んだ。それが、事実であったなら、父母は、離別しなければならないのであった。
「今し方」
「誰から聞いたか?」
二人は、群集の、二人を見る顔の真中で、じっと、お互に、胸の中の判る眼を、見合せた。
「名越殿から――すぐ戻れっ。下らぬ人足を対手にしておる時でない」
益満は、小藤次の顔を睨みつけた。小藤次は、乱暴者としての益満と、才人としての益満とを、見もしたし、聞いてもいた。それよりも、今の、寛之助が死んだ、という言葉が、小藤次の心を喜ばした。
(妹が、喜ぶだろう)
と、思うと同時に、もし、妹の子の久光が島津の当主になったなら、俺は、益満も、この小僧も、ぐうの音も出ないような身分になれるんだ、と考えた。そして、そう考えると、益満が
「下らぬ人足」
と、いったのも、小太郎の振舞も、大して腹が立たなくなってきた。だが、二人が、群集の中を分けて行こうとするのへ
「何うするんだ」
と、浴せかけた。益満が、仙波に、何か囁いた。仙波が、庄吉の方を顎で指して、何か云った。
「利武っ」
と、益満が怒鳴った。
「大工の守《かみ》利武なんぞに懸け合われる筋もないことだ。申し分があれば、月番まで申して出い。掏摸の後押しをしたり、お妾の尻押しをしたり――それとも果し合うならな、束になってかかって参れ、材木を削るよりも、手答えがあるぞ」
益満の毒舌は、小藤次の啖呵《たんか》よりも、上手であった。小藤次は士言葉で、巧妙な啖呵を切る益満に、驚嘆した。
(おれなんぞ、職人言葉なら、相当、べらべら喋るが、御座り奉る言葉じゃあ、用件も、満足に足せねえのに、掏摸の後押し、妾の尻押し、なんぞ――うまいことをいやあがる)
と、思った。途端に
「ようよう」
と、南玉が、叫んで、手をたたいた。
「何っ――もう一度、吠えてみろ」
小藤次が、睨んだので、南玉は
「いえ――」
周章てて、益満の方へ、走り寄った。益満は、もう群集の外へ出て、群集に、見送られながら、小太郎と、足早に歩きかけていた。
「あら、何奴《なにやつ》で」
と、職人が、小藤次に聞いた。
「あれが――益満って野郎だ。芋侍の中でも、名代のあばれ者で、二十人力って――」
「若い方も、強そうじゃ、ござんせんか」
「あいつか」
二人が、湯屋の前を通り過ぎようとすると、暖簾《のれん》の中から、鮮かな女が、出て来て
「おや、休さん」
「富士春か」
「寄らんせんか」
富士春は、鬢《びん》を上げて、襟白粉だけであった。小太郎は、ちらっと見たまま、先へ歩いて行った。益満は、小太郎を追いながら
「急用があって」
と、答えた。
「晩方に、是非――」
と、富士春が、低く叫んで、流し目に益満を見た。
小太郎は、自分の歩いていることも、益満のいることも、南玉が、ついて来ることも、忘れていた。
(父は、きっと、家中への手前として、自分の面目として、寛之助様が亡くなったとしたなら、母を離別するだろう。医者の手落であっても、御寿命であっても、又、噂の如く調伏であったにしても――そして、離別されて、母は、一体、どうするだろう?――母に何んの罪もないのに、ただ、家中へ自分の申し訳を立てるだけで、妻と別れ、子と引放し、一家中を悲嘆の中へ突き落して――それが、武士の道だろうか)
南玉は、二人の背後から、流行唄の
[#ここから3字下げ]
君は、高根の白雲か
浮気心の、ちりぢりに
流れ行く手は、北南
昨日は東、今日は西
[#ここで字下げ終わり]
と、唄っていた。益満が
「小太」
小太郎が、振向くと、益満は、微笑して
「又とない機が来た」
小太郎は、父母のことで、いっぱいだった。
「関ヶ原以来八十石が、未だ八十石だ。それもよい。我慢のならぬのは、家柄、門閥――薄のろであろうと、頓馬《とんま》であろうと、家柄がよく、門閥でさえあれば、吾々微禄者はその前で、土下座、頓首せにゃあならぬ。郷士の、紙漉《かみすき》武士の、土百姓のと、卑《さげす》まれておるが、器量の点でなら、家中、誰が吾々若者に歯が立つ。わしは、必ずしも、栄達を望まんが、そういう輩に十分の器量を見せてやりたい。器量を振ってみたい。それにはいい機《おり》だ。又とない機だ。この調伏――陰謀が、何の程度か判らぬが、小さければ、わしは、わしの手で大きくしてもよいと思うし、真実でなければ、わしが、真実にしてもよいとさえ思うている。小太」
益満は、小太郎の顔を見た。
「うむ」
「何を考えている」
「わしは――」
小太郎は、益満の眼を見ながら
「父は、例の気質じゃで、今度の、お守りのことで、母を離別するにきまっている」
「或いは――然らん」
益満が、うなずいた。
「大分、こみ入ってますな」
南玉が、後方から、声をかけて
「智慧がお入りなれば、上は天文二十八宿より、下は色事四十八手にいたるまで、いとも、丁寧親切に御指南を――」
「うるさいっ。貴様、先へ行って待っていろ」
益満が、振返って叱った。
「承知」
南玉が、手を上げて、小太郎へ挨拶して、足早に、行ってしまった。
「わしに、一策がある。母上が、戻られたなら、知らせてくれ」
「一策とは?」
益満は、声を低くして、小太郎に、何か囁いた。小太郎は、幾度もうなずいた。
「これが外れても、未だ他の手段《てだて》がある。所詮は、八郎太が一手柄立てさえすればよいのではないか――こういう機――一手柄や、二手柄――」
益満は、怒っているような口調であった。三田屋敷の門が見えた。
八郎太は、自分の丹精した庭の牡丹を眺めながら、腕組をしていた。
「只今」
と、小太郎がいっても、振向きもしなかった。それは、もう、寛之助の死を知り、心ならずも、妻を離別しなくてはならぬ人の悲しい態度であった。
母としての七瀬は、三人の子にとって、父八郎太よりも、親しみが多かった。そして、英姫の侍女としての七瀬は、その儕輩《さいはい》よりも群を抜いていた。八郎太の妻としては、或いは過ぎたくらいの賢夫人であった。それだけに、今度のことの責任は重かった。それだけに、八郎太としては、容赦の無い処分を妻に加えて、自分の正しさを家中へ、示さなくてはならなかった。
「寛之助様のことは――」
「聞いた」
八郎太は、なお、牡丹を見たままであった。
「母上のことにつきまして――」
「お前は、文武にいそしんでおればよい」
父は振向いた。
「髪が乱れて――何かしたの?」
「掏摸を懲らしてやりました」
「下らぬ真似を
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