事は、将曹を斬るよりも、遥かに、大きい」
 一蔵は、うなずきながら、陽を受けて、紫紺色にそびえている桜島を、じっと、凝視していた。二三人の、同じ姿の軽輩達が、近寄って来た。
「今までは、おすがり申していたが、お亡くなりになって、己一人でやらなければならぬと、思うと、おれは、こうして、じっとしているのでさえ、惜しくなってきた。斉彬公と共に、これまでの月日が去ってしまって、ちがった陽の下に、生れ帰って来たような気がする」
 五代才助が呟くようにいった。
「わしも、昨日までのわしではなくなった」
 と、一人が呟いた。一人の上席の者が、この一群の側へ通りかかって
「隼人が、何を悲しむ」
 と、いいすてて、行ってしまった。才助が、その後姿へ
「もう、お前らは、対手にしないぞ」
「相手は、天下だ」
「徳川だ」
「異国だ」
 立っている堀の石垣の上から、鹿児島の町は、磯浜の方へ、低く、充満して、連なっていた。浜には、斉彬公の定めた、日の丸の船印の船が。その前には、オランダ人の驚いた、新鋳の大砲庫が。松林の中には、反射炉の頭が。その手前に、紡績工場が――斉彬は、死んだが、それらのもの――日本全体を対手としても戦いうる精鋭な武器が。やがては、日本に富をもたらすべき生産設備が。右の方、城内の武器庫にも、眺めているその前方いっぱいに。左の方には、同じように石垣際に、一かたまりとなって、内部へ入れない軽輩が――それから、その人々の心の中には、斉彬の心が、いっぱいに――
 吉之助は、磯浜を見、右を見、左を見て、赤い眼に、又涙をためた。だが、脣には、微笑を浮べて
「きっと、なせる。一蔵」
「なせる」
 大久保一蔵は、そういってうなずくと、吉之助の手を握った。軽輩の総ては、同じ心で、磯浜を、桜島を眺めていた。桜島は、真直ぐに、煙を立てていた。

「京は、何んだか、ざわついていたが、江戸は、相変らず、のんびりしてらあ。今にも、黒船が来るように騒いでゃあがったが――富士春のところへ、又、ぽつぽつ、旗本が、三味の稽古に来ているってじゃねえか。一体、何うなるんだか――」
「何うにか、なるだろう。何うともしてくれってんだ」
 庄吉は、南玉の方へ、肩を聳やかして
「おいらあ、これで、男の一分が立ったから、おさらばってことにして――一つ、仲間の奴へ、奉加帳を廻してさ、二三十集まったら、何か、こう小商売《こあきない》でもやらかそうかと思うんだが。何うでえ師匠」
「いい思案だ」
 小太郎は、縁側で、膝を抱いて、柱に凭れていたが
「庄吉――わしも、商人になろうかと思う」
 と、云って、三人の方を見た。深雪が、兄の顔を見て、すぐ、俯向いた。
「若旦那あ、これからじゃあ、ござんせんか。富士春んとこの浪人衆でさえ、三田の御屋敷へこもって、一騒ぎ持ちゃげようという時節に、あんた、一文、二文の利がすりとるなるんざあ、南玉、いささか不服でげすな」
「南玉、世の中は、まだまだ変りそうだ」
「いくら変ったって、お侍は、お侍、巾着切が、二八うどんになるような――」
「いいや、そうではない。益満の企ても、国許の方々の企ても、調所の利殖しておいた金子があればこそじゃ。斉彬公は強兵よりも、富国の策を、根本の大事とされたが、如何にも尤もじゃ。わしは、牧を討つのにかかって、何一つ、君にお報いできなかったが、同志の行動を見ると、ただ金子を使うばかりじゃ。せめて、わし一人でも、他人のせぬ、同志の卑しむ、金儲けをしようとおもう。そして、後ろ楯となろう。きっと、亡君は、お喜びになるにちがいない。又、世の中を見ると、のう、庄吉、武家は、徒らに、空威張りのみで、金子の前に、頭を下げぬ者が、幾人おる」
「そうでござんすとも――」
「調所のやった密貿易《みつがい》を、わしは、学ぼうと思う。庄吉、共々に、同じ棄てる命なら、人のせぬことをして、棄てようではないか。同志を裏切ったと、罵られようと、隼人の面目を汚したと、いわれようと、わしは、これが、斉彬公のお志の第一であったと、信じる――深雪、その心でいてくれい。わしは、今まで、武士としての半生を、空しく、過してしまった代りとして、これから後の半生を、益満より、一足先に、出ようとおもう」
「資本《もとで》は、若旦那」
「資本か」
 と、いって、小太郎は、笑った。
「益満、諸共、押込じゃ」
 そういった時、表から
「小太」
 と、益満の声がした。
「行くか?」
「いよいよ仕事の手初めだ」
「わしも、仕事の手初めだ」
 小太郎は、笑いながら、刀をとって、立上った。薄暗くなって来た表の土間に、益満か、身軽な姿で立っていた。
「今夜の、手初めが、やがて、天下を一新する手初めになるのだ」
「益満、わしは、金子を奪うぞ。それも軍用金にでなく、密貿易をする資本にだ。同志に不服の者があるが、わし一人でも、この志は変えぬ。これが、斉彬公に尽しうる、わしが、ただ一つの道だ――判るか」
 益満は、暫く黙っていたが
「それもよい」
 と、いった。
「行こう、益満」
 と、小太郎は、明るい声をして
「お前が、天下をとるか? わしが、天下を取らせるか。今度は負けぬぞ」
 と、いって、笑った。長屋の表へ出ると、賑やかな話声と、三味の音とがしていた。

 島津将曹は、小書院の窓際の、机の前に坐って――時々、暗くなってくる燭台の灯を、自分で、摘みながら、考え込んでいた。
 斉彬が臨終の時にまで、何一つ、自分に対して、咎めの言葉さえ洩らさなかったということが、将曹の心を打ち砕いてしまっていた。
 斉彬が世継ときまった時に、将曹は、勿論、家老職を、剥奪されるものだと、考えていたが――そして、斉彬の前へ、呼び出された時には、その覚悟だけで、いっぱいであったが、斉彬は
「父上に対していたと同様に、わしにも、輔佐してくれればよい」
 と、いって、将曹の覚悟の、遣り場を、無くしてしまった。だが、将曹は、それに対して
(何か、肚に一物があるのであろう)
 と、いろいろのことを考えて、十分に警戒をしていたが、それからすぐに続いて来た病の床ででも、斉彬は、何一つ、将曹に対して、その罪を責めるらしい言葉を洩らしはしなかった。
(えらいお方だ)
 と、将曹は、心の底から、しみじみと、感じることが出来た。
(仕えてみて、初めて、斉彬公の非凡さが、判った――幕府が、この人を、頼みとし、天下の者が、この人に縋ろうとしているのは、尤もだ)
 と、思った。だが、その斉彬に対し、斉彬の子に対して、自分の取っていたことが、悪いことであるとは、思えなかった。
(寛大、高識の君ではあるが、然し、財政の方の事には、欠けていなさる――人間、そう、完備しているものではない)
 と、斉彬の、消費的方面――糸が、少し、機械の力によって、紡ぎ出せるという紡績機――
(あれは、玩具ではないか? それに、大金を投じて――だから、父君の、御心配になるのも、当り前だ。オランダ人が来て、ほめたといっては、有頂天になっておられるが、紅毛人が、ほめたとて、何んだ。これが、斉彬公の御欠点だ。一にも、二にも、西洋西洋と、反射炉にも、ギヤマンにも、多大の金がかかったが、何一つ、それが金儲けになったという話は聞かない。折角の、調所の金が、見る見る空費されて行くが、これを、斉興公が、御心配になるのは、至極の御道理だ――その斉興公のために、犬馬の労をとっておるわしは、少しも、心に咎めることはない――斉彬公は、確かにおえらい、しかし、だからといって、わしが悪人とはいえまい)
 将曹は、斉彬の寛量に、打潰《うちつぶ》された心を、取戻そうとして、じっと、考えていた。そして
(わしのして来たことは、間違っていない)
 と、自分の心へ、十分、理解させようとしたが、その心の中に、幻のように、煙のように――七人の子供を殺した、ということが、閃いていた。払っても、払っても、その幻は、水の蔭のように、揺れながら立昇っていた。
(何んの罪も無い幼児を殺して――)
 将曹は、新鮮な果物のような、子供の頬を思い出して
(これは、わしが、責められても申開きのできぬことだ。然し、これも、御家のためならば、何う、地獄において、呵責《かしゃく》されようとも、退く訳には、行かぬ――道はちがうが、同じく、御家を思う一心からだ)
 そう考えてはみたが、自分らの陰謀が、首尾よく、成就したと思うと、何かに対して、大きい罪を犯しているような気がした。何かしら、張りつめていたものが抜けて、弱くなって行くような気がした。

 持仏の間には、大きい、広い仏壇が、黒い艶を、金色の光を、静かに、輝かせていた。
 すすけた厨子の中に、真黒な裸像で立っている仏が、その前には、段々に供物が、花が、それから、その上に、白木の位牌が――それには、お由羅の筆蹟らしく
[#天から3字下げ]島津修理大夫源斉彬
 と、書かれてあった。
 殆んど、顔を合せたことのない、自分の生まぬ子――お互に、顔を合せないようにしている斉彬の死に対して、お由羅は少しの感じもしなかった。
「御逝去になりました」
 と、いって来た時に
(本当であろうか)
 と、すら、疑い
(本当なら、意外に早く成就した)
 と、感じただけで、自分の陰謀のために、呪いのために、自分の子が亡くなったということに対して、顔を知らぬ家来の死を聞いた程にも、感じなかった。
 そして、こうして、仏壇の前に、珠数をもって、称名しているが、それは、自分の心の咎めを消すためでもなく、斉彬の冥福を祈るためでもなく、一つの、体裁としてのみであった。
 お由羅は、称名を、口で、唱えながら、久光のことを、忠義のことを、斉興のことを、考えていた。
(これで、悉く、成就したと、将曹などが考えていてくれたなら、大間違いであろう。これからが、大切なのだから)
 お由羅は、軽輩を恐れていたし、だんだん老衰して来る斉興を、覚束なく考えていたし、斉彬を崇拝している久光のことも不安であったし――それらのことが、悉く、自分の意のままに、解決されなければ、十分な成就とはいえない、と考えていた。
(そうせんと、今度は、自分が、殺される)
 と、感じていた。
(久光のために、わしの殺されるのはよいが――人を呪った上は、自分も、呪われるものであるが、妾は、子が可愛いばかりでない、お家を大事に思うからこそ、ここまで、大それたことをしてきたのだ)
 と、思った。そして、そう思うと、七人もの子を、次々亡くし、その終りには、夫の斉彬さえ亡くしてしまった英姫のことが、思い出されたが、それは
(運の悪い人)
 で、お由羅には、見たこともない夫人へ、同情のしようがなかった。
(一度でも、逢うていると、それは、人情として、気の毒にもなるが――)
 お由羅は、自分の眼に記憶のない七人の子供の死――それは、自分が、命じて殺したのではあるが、見ていない子供の面影は、他人の話を聞くよりも――遠い昔の、そうした物語の本を読んでいるよりも、心に迫って来るものがなかった。女中が
「お渡りで、ござります」
 と、外から、声をかけた。
「今行く」
「あのう、こちらへ、参ると、仰せられてござります」
「ここへかえ」
「はい」
 お由羅は、斉興が、なぜ、持仏の間へ来るか、よく判っていた。
(もう、一押ししないと、九仞《きゅうじん》の功を、何んとかに欠くということになる)
 お由羅は、自分の褥を、斉興のために、布いて、自分は、下座へ退った。

 斉興の顔は、いつになく、沈鬱であった。お由羅に対しては
「わしも、もう、いい齢だから――」
 と、洩らすことはあったが、余人に対しては――斉彬に対してすら、まだ、少しも、衰えたところを見せまいとする斉興であった。だが、斉彬の急死に対して、父の情として――微かにでも、心のやましさを感じている人間の自然として、重苦しい鉛のようなものが、頭の中いっぱいに張りつめ、肚の中いっぱいに、沈んでいた。何う、払いのけようとしても
(わしが、殺したのも同然だ)
 と、いうような気がしていた。
 俯向いて、廊下から、持仏の間へ入って来た斉興に、
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