牧殿は三十七八じゃ」
綱手が、小太郎の後方から入って来た。そして、いっぱいに涙をためた眼で、八郎太を見ながら、両手をついた。
「お父様」
八郎太は、綱手に、見向きもしないで
「七瀬、予《かね》て、申しつけておいた通り、勤め方の後始末を取急いで片付け、すぐ、国へ戻れ。許しのあるまで、二度と、この敷居を跨ぐな」
「はい」
「お父様」
綱手は、泣声になった
「お母様に――お母様に――」
「お前の知ったことでない、あちらへ行っておいで」
「いいえ、妾《わたし》は――」
「それから、手廻りの品々は、船便で届けてやる。早々に退散して、人目にかからぬように致せ」
罪のない妻を、こうして冷酷に扱うということが、武士の意地だと、八郎太には思えた。この恩愛の別離の悲嘆を、こらえることが、武士らしい態度だと、信じていた。
又、妻をこう処分して、武士らしい節義を見せるほか、この泰平の折に、忠義らしい士の態度を示すことは、外になかった。こうすることだけが、唯一の忠義らしいことであった。
[#ここから3字下げ]
ざんば岬を
後にみて
袖をつらねて諸人の
泣いて別るる旅衣
[#ここで字下げ終わり]
益満
前へ
次へ
全1039ページ中65ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング