何を考えていいか、わからなかった。罪もなく、尽すべきことを尽して、そして、離別されに戻って来た妻の顔、母の顔が、今すぐに見えるのかと思うと、いらいらした怒りに似たものと、取りとめのない悲しいものとが、胸いっぱいになってきた。
 つつましい足音が聞えてきた。襖が開いた。小太郎は、母だと思ったが、顔を見るのさえ辛かった。振向いて、眼を外《そ》らしながら
「お帰りなされませ」
 と、いった。
「只今――」
 そういった七瀬の声は、小太郎が考えていたよりも、晴々としていた。小太郎は、うれしかった。

(医者が、侍臣が十分に、手を尽しても、助からぬのだから、何も、妻の手落ちばかりというのではないが――重役の方々のお眼鏡に叶《かな》って、御乳母役に取立てられたのに、その若君がおなくなり遊ばされた以上は、のめのめ夫婦揃って、勤めに上ることもできん。妻の不行届を御重役に詫び、わしの心事を明らかにするためには、とにかく当分の離縁の外に方法がない。そのうちに、誰かが、仲へ入ってくれるであろうが――)
 八郎太は、その面目上から、立場から、妻の責任を、こうして負うより外になかった。振返って七瀬を見ると、七瀬
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