を見ると、袖を口へ当てて泣き入った。
(せめて――せめて正気のある間に、そうしてやって下さったなら)
 二日前英姫の懐の中で、熱っぽい、だるそうな目をしながら
「お父《とと》は?」
 と、聞いた時、幼児は、それが父に逢う最後だと感じていたにちがいなかった。
「見たいか」
 と、聞くと、はっきり、強く
「お父は?」
 と、いって、頷いた。英姫は、すぐ、侍女に斉彬を迎えにやったが、今行く、今行くと、とうとう斉彬の来ぬうちに、また熱の中へ倒れてしまったのであった。
(何んなに、顔を見たかっただろうか)
 寛之助が、灰色の、広々とした中を、ただ一人で、とぼとぼと、果もなく、父を恋い、母を求めて歩いて行く姿が考え出されて来た。英姫は、袖を噛んで泣き入った。
「寛之助――父《てて》じゃ」
 と、斉彬が叫んだ。だが、幼児の眼は、もう動きもしなかった。
「方庵」
「はっ」
「澄も、邦も、同じ容体で、死んだのう」
「はい」
「未だ匙《さじ》が届かぬか」
 やさしいが、鋭い言葉であった。斉彬のいうのは、当然であったが、方庵には、どうしても解《げ》せぬ病であった。
「七瀬、疲れたであろう」
「いいえ」
「病
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