興は、茶坊主笑悦を、調所《ずしよ》笑左衛門と改名させて登用し、彼の献策によって、黒砂糖の専売、琉球を介しての密貿易《みつがい》を行って、極度の藩財の疲弊を、あざやかに回復させた。
 然し積極政策では、重豪と同じ斉興ではあったが、大の攘夷派で、従って極端な洋学嫌いであった。尊王派の頭領として、家来が
「西の丸、御炎上致しました」
 と、いった時
「馬鹿っ、炎上とは、御所か、伊勢神宮の火事を申すのだ。ただ、焼けたと申せ」
 と、怒鳴る人であった。家来が恐縮しながら
「就きまして、何かお見舞献上を――」
「献上? 献上とは、京都御所への言葉だ。未だ判らぬか、此奴。何んでもよい、見舞をくれてやれ」
 ペルリが来た時、江戸中は、避難の荷物を造って騒いだ。その時、三田の薩摩邸は、徹宵、能楽の鼓を打っていた。翌日、門に大きい膏薬《こうやく》が貼ってあるので、剥がすと、黒々と「天下の大出来物」と書いてあった。
 斉彬《なりあきら》は、この父の子であった。だが、幼少から重豪に育てられて、洋学好みの上に、開国論者であった。そして、自然の情として、父斉興とは、親しみが淡《うす》かった。その上に、幕府は、斉彬
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