館、造士館、医学院、臨時館の設立、それによって、南国|片僻《へんぺき》の鹿児島が、どんなに進歩したか?
 彼自らは「琉球産物誌」「南山俗語考」「成形図説」を著し、洋学者を招聘し、鹿児島の文化に、新彩を放たしめたが、然し、それは悉《ことごと》く、多大に金のかかることであった。
 また重豪は、御国風の蛮風を嫌って、鹿児島に遊廓を開き、吉原の大門を、模倣して立てた。洋館を作った。洋物を買った。そうして、最後に、彼の手元には、小判はおろか、二朱金一つしかないことさえできるようにもなってしまった。
 士《さむらい》は、鍔《つば》を売り、女は、簪《かんざし》を売って献金し、十三ヶ月に渡って、食禄が頂戴できないまでに窮乏してしまった。そして、彼は隠居をした。
 次代の斉宣《なりのぶ》も、士分も、人民も、この重豪の舶来好みによって、苦難したことを忘れることができなかった。だから、斉宣は、秩父太郎|季保《すえやす》を登用して、極端な緊縮政策を行った。然し隠居をしても、濶達な重豪は、自分に面当《つらあて》のようなこの政策に、激怒した。そして直ちに、秩父を切腹させ、斉宣を隠居させ、斉興を当主に立てた。
 斉
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