腰に垂れていた。二人とも、白い下着の上に黄麻を重ね、裾を端折《はしょ》って、紺|脚絆《きゃはん》だ。
 老人は、長い杖で左右の草を、掻き分けたり、たたいたり、撫でたり、供の人も、同じように、草の中を注意しながら、登って行った。
 老人は、島津家の兵道家、加治木玄白斎《かじきげんぱくさい》で、供は、その高弟の和田仁十郎だ。博士|王仁《わに》がもたらした「軍勝図」が大江家から、源家へ伝えられたが、それを秘伝しているのが、源家の末の島津家で、玄白斎は、その秘法を会得している人であった。
 口伝《くでん》玄秘《げんぴ》の術として、明らかになっていないが、医術と、祈祷《きとう》とを基礎とした呪詛《じゅそ》、調伏《ちょうぶく》術の一種であった。だから、その修道《すどう》者として、薬学の心得のあった玄白斎は、島津|重豪《しげひで》が、薬草園を開き、蘭法医戸塚静海を、藩医員として迎え、ヨーンストンの「阿蘭陀本草和解」、「薬海鏡原」などが訳されるようになると、薬草に興味をもっていて、隠居をしてから五六年、初夏から秋へかけて、いつも山野へ分け入っていた。
 行手の草が揺らいで、足音がした。玄白斎は、杖を止
前へ 次へ
全1039ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング