一太刀でもいい、斬ってやったら――斬って斬れぬことはあるまい)
 そう思うと、一つは綱手のために、一つは、己の面目のために、叡山へ登ってみたくなってきた。
(明後日、出立とすれば、中一日、その間には仕事もあるし、重役に願って、五日七日の暇をもらったなら――そうだ、外の者とはちがうのだから――)
 月丸は、そう思いながら、部屋へ戻って来た。若い人々は、旅の疲れもなく、何処へか遊びに出たと見えて、一人も居なかった。入ると、何んとなく陰気で、黒い天井に、二人の血が滲んでいるように感じられたし、薄暗い部屋の襖の向うの暗闇の中には、綱手と、七瀬とが、血塗れになって、立っているようにも感じた。
(気の弱い――急に、ここへ来て二人のことを、こんなに思い出すなど――不覚だ――何を二人のために憐むのか? 父が、お為派なら、わしは、或いは、人の刃にかかって、死んでいるかもしれぬ。何方《どっち》が善で、何方が悪か、誰が判る? 所詮は、武士というものの辛さだ)
 そう思う片方から
(わしは然し、一旦脱走して、帰参を許されたものの、それは、許されて元々だ。綱手を失っただけが損だ)
 とも、考えた。そして、暫く、俯向いて、腕組をしていたが
(そうだ、あの鏡――)
 と、思った。そして、小さい、旅行李を出して、蓋をとった。その中には、懐中薬だの、折本の、道中細見、手帳、守り札、着換え、というようなものが、入っていた。そして、その底に、印籠の側に、薄い絹でくるんだ、綱手の形見の鏡が、入っていた。
 薄い絹は、少し、黒くなっていた。それは、鏡をしまっていた懐へ流れ込んできた綱手の血に、染まったところであった。
 月丸は、鏡を手にとって、自分の顔を、写してみた。そして、じっと、睨みつけていたが、ふっと
(もしかしたなら、父が――父も、叡山へ、来てはいないであろうか)
 と、思った。父に似た自分の顔に、父に似た曇りと、疲れとの出ているのを、月丸は、感じた。

 月丸は、兵道家の子として、兵道を学びはしなかったが、その少しを、知ってはいた。仙波八郎太のために、叡山の上の、修法《ずほう》場を荒された牧仲太郎は、いつか又、叡山で、修法を――それは、最初の行よりも、三倍の行をしなければならなかった。
(父は、叡山へ来るかも知れぬ――自分が、京へ入ると共に、急に、あの山へ行ってみたくなったのは、何かしら、父の霊と、自分の霊とが、ふれているのでは、ないであろうか)
 そういう風にも、思えてきた。
(そんなことは、あるまい――父は、よく、人の霊魂の、不思議を説くが、自分は、七瀬の夢さえ見たことがない――魂の不思議――そんなことがあるであろうか?)
 月丸は、父の修法の効験のことを考えると、十分に、あるとも思えたが、自分が、二人の女を殺したのに、何んの不思議も、起って来ないのを考えると、無いようにも思えた。だが、こうして、叡山のことを、考えていると、何かしら、自分が、叡山へ行ったなら、不思議な事が、起るような気もした。そして、そのことが、不安なようであり、怯けるようであり――行ってみたいが、何んとなく、恐ろしいようにも、感じられた。
(何を、怯ける?――行こう――きっと、行く)
 月丸は、そう決心した。そして、鏡を、絹へ包みかけて、もう一度、自分の顔を、写してみて
(よく、剣難の相とか、水難の相とか、ということがあるが――)
 と、じっと、自分の顔を見ていると、何かしち、いつもよりも、険しいものが、眉に、眼に現れていた。
「剣難の相」
 と、呟いて
(対手から、理不尽に、斬られるようなことは、そう、人間には、起らない筈だ。己の心から起したことによって、剣難がくるものとすれば、わしの、近頃の心は、何んとなく、自分を斬り、人を斬るという心だ。これが、剣難であろう。気の短くなったのが、眉間に、現れている)
 そう、月丸が、感じた刹那
(綱手の呪い)
 と、頭の底深く、閃くものがあった。
(綱手の鏡で、そういうことを、考えるのは――それが、霊の仕業というのであろうか)
 月丸は、鏡の裏を、眺めた。蓬莱《ほうらい》山が、浮彫りにしてあった。その図を見ると同時に、胸が、じりっと、苦しさに、圧迫された。
(嫁入の品として、求めたのであろうに)
 と、思うと、その苦しさが、悲しさを混えて、だんだん強くなってきた。
「愚にもつかん」
 と、いって、月丸は、頭を振った。そして、鏡を、手早く、行李の中へ、入れてしまった。
 足音が、遠くから、入り乱れて、響いて来た。人々が、戻って来たらしく、話声と共に、近づいて来た。そして、襖が開くと
「一人で?」
 七八人の人々が、入って来て、どかどかと、坐って、刀を、座に置いて
「いよいよ、天下、動乱かのう」
 一人が
「月丸」
 と、呼んで
「頼山陽の倅を存じて
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