ましても――」
と、聞いた。
「拙者は、祈祷のために、旅へ出る。いつ戻るか、判らぬから、お由羅殿が、お戻りになったら、左様申し伝えてもらいたい」
牧は、こう云って、脚絆を、足へ当てていた。
「では、お部屋様の、お戻りの先に」
「左様」
「お許しがござりませぬに、お出ましになりましては――」
「左様のことは、よろしい」
「はい」
「駕を二梃申しつけて、山内へ、早く支度をするようと、申してもらいたい」
「はい」
それ以上に云っても、答える牧ではなかった。女中が、去った。牧は、支度をしてから、部屋の中の品々を、それぞれのところへ片づけて、火鉢の灰の形までも、正しく、整えた。そして、じっと俯向いて、腕組したまま、いつまでも、坐っていた。
まんじ乱れ
髪を束ねて――いつの間にか、少し、やつれを見せ、身躾みの化粧も、この頃は、しなくなって――垢染みた着物に――それは、この長屋の人々と、同じようにまで、汚くなった深雪が、洗濯している手を止めて
「あっ」
と、いった。そして、立上って、眉を歪めて
「お兄様」
小太郎は、奉行所へ引かれた時と、同じ姿で――だが、いつの間にか、蒼白い顔になって
「無事か。皆、変りはないか」
「ええ」
深雪は、前掛で、手を拭きながら、胸を嬉しさでいっぱいにしながら、兄に従って、井戸端から、家の方へ、小走りについて行った。長屋の人々が、二人をのぞいて見て
「おお、若旦那」
とか
「よく、御無事で」
とか、声をかけた。深雪は
「有難うございます、有難うございます」
と、左右へ、お叩頭をしながら、涙を浮べていた。
「庄吉に、南玉は?」
「呼んで参りましょうか」
「それにも及ばぬ」
「ええ、もう、参りましょう」
口早に、こう云って、二人は、家の中へ上って行った。
「もう、大事ないのでござりますか」
「うむ」
「ま、何うして、では、召捕りに?」
「判らぬが、察するところ、御鷹野の連累《れんるい》として、念のために捕えたが、久光公から、何か、御言葉が出たらしい。将曹でも居ったなら、斬られたかも知れんが、あいつ、国許に戻っておるし、斉彬公の御世継の話の定まりそうな折柄、奉行も、濫りに、手をつけて、役の表に障ってならぬと、それで、無事に放免したらしい。召捕らせたのは、将曹か、平か、お由羅あたりの指金らしいが――当節は、奉行も、利口で、風向次第、何んとでもするものらしい」
「まあ、御奉行様が、左様なことを――」
「奉行も、老中も――益満の申す如く、徳川の綱紀は、乱れて来ているらしい」
「妾――お兄様、幾度死のうかと、決心しましたか知れません、本当に――」
深雪は、こういうと、袖を目へ当てた。
「南玉に、庄吉は、相変らず、来ておるかの?」
「はい、いろいろと、骨を折ってくれましたが――」
と、いった時、ことこと走る音が、近づいて来た。
「庄吉でござりましょう」
「走って参ったの」
いい終るか、終らぬかに、格子戸を開けて
「本当だっ――若旦那っ」
庄吉が、敷居に躓きながら、駈け込んで来た。
「今、町内の奴が、確かに、小太郎さんだと知らせに来てくれましてね。横っ飛びにすっとんで来たが――若旦那」
と、いって、片手で、何かを拝んで
「死んだ大旦那様の御加護だ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「心配かけたの」
「自分の災難よりも辛いや、見ちゃおれませんでしたよ。一時は、こんなに、眼を泣きはらして――御覧なさい、この、痩せ方を」
庄吉は、深雪を見てから、小太郎の方を向いて
「ところで、一体、奉行の野郎、何んてことをしましたのかい」
と、顔をのぞき込んだ。
「うわーっ、うわーっだ」
南玉が、大きい声を出して、長屋の入口から、走り込んで来た。そして、土間に立って、小太郎に、口々に、挨拶している人々に
「赤飯炊いてくれ、赤飯を。鯛をつけてな、鯛を――」
人々が、振向いて
「師匠、嬉しいだろう」
「何をっ、こうなるとは、ちゃんと、天文で見抜いていたんだ」
「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をつけ、二三日、飯が食えねえって云ってやがったくせに――」
「あの時は、腹をこわしていたんだ。退け、退け、おけら」
南玉は、人々を掻き分けて
「いや、実に、何うも――」
上り口の端へ上って、ぺたりと、坐ってしまった。そして、胸を叩きながら
「ああ、苦しい」
「小父様、お冷でも?」
と、深雪がいって、立上ると
「老人の冷水――いや、齢はとっても、桃牛舎南玉、這《は》って参ります、這ってな」
南玉は、ごそごそ這いながら、奥の間へ入った。長屋の人々が、見舞の品を置いて、戻って行った。
「有難うよ、有難うよ」
庄吉が、一々、挨拶した。南玉が
「又、明晩も、早々から」
と、お叩頭をして
「若旦那、あっし
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