して、三百年は、永い天下でござります。一新すべき時が参っておりましょう。手前、せめても、それに対して善処をしたいと――史上に見る、悲惨な末路に、将軍を陥れたくないと、それのみ、心痛しております」
「勝は、私事を捨てて、天下の難に赴きうる。わしは、それが、羨ましい。わしの身辺には、紛擾、ますます頻出《ひんしゅつ》して――」
斉彬は、そこまで云って、黙ってしまった。安房も、暫く、黙っていたが
「お察し申し上げます」
と、俯向いて云った。
「もう、勝にも、逢えんかもしれぬ」
勝は、顔を上げて、斉彬を見て
「それは?」
「お身のような、人材の居るのを知って、安心をした。わしは、ここ三十幾年、安心というものをしたことがなかった――ほっと、重荷を、降ろしたように感じる。こういう時に、人間は、えて、病などに罹るものじゃ。今、ふっと、もう二度と、江戸は、見られんというような気がした」
斉彬は微笑して
「牧の呪いかも知れん、ははは」
と、笑った。
「そういう噂も、ござりますが――」
勝も、微笑して
「西洋科学にも、こればかりは、ござりますまい」
「牧も、英才であったが、身を誤った」
斉彬が、呟いた。庭に、人影が動いて
「恐れながら――」
斉彬が見ると、庭番が、蹲《うずくま》っていた。
斉彬が、頷くと
「お国許より、急使でござります」
「通せ」
「書状を、持参致しましたが――」
斉彬が、手を出すと、庭番は、廊下から、手を延した。勝が、取次いで、斉彬に渡した。
庭番は、去ろうとした。斉彬は、手紙の封を切りながら
「休息させてやれ」
と、その後姿へ、声をかけた。
「それでは、これにて――」
勝が、膝を動かすと
「暫く――この状に、何んな珍聞があろうも知れん。又、イギリス船が、来襲したとか――」
と、云いつつ、封を切って、眼を当てると、微笑が、すぐに消えてしまった。勝は
(何か、大事だな)
と、思いながら、日の丸の旗の翻っているのを眺めて
(水戸、越前、土佐、それぞれに、大名中の人物にちがいはないが、この公とは段がちがう。人物の練れている点、肚の据っている点、知識の広い点、見識の抜群さ、頭脳の鋭利さ――)
安房が、そう考えて、斉彬の顔を、じっと見ると、斉彬は下脣を噛みながら、溜息をした。
(国許に、何か重大事が起ったな)
勝が、こう感じた時、斉彬は、手紙を巻き納めて
「親の心、子知らずと申して――」
淋しそうに、微笑した。
「はっ」
「わしのためを思ってくれた家来共が、大分、父上のために、処分されたが、若い者が、未だ、一揉しようと――何うも、困った人々じゃ。ここに――」
斉彬は、手紙の上へ、眼を落して
「西郷吉之助、大久保一蔵などと申す者の名が出ているが、勝、よく憶えておいてくれんか」
「はい、西郷吉之助、大久保一蔵」
「わしの亡い後は、こういう軽輩上りが、仕事をしてくれるであろう。家老でもない、重役でもない、軽輩共じゃ」
「羨ましく存じます」
「そうか」
「徳川の旗本共の行状を、お聞き及びでござりましょうか」
「薄々――」
「廟堂に、一人、二人の人材があったとて、この旗本の上に立って、何が、出来ましょう。それに、浪人の勢いは、勇気は――尊王、倒幕という理窟を考えるだけでも、それを唱道するだけでも、無為の旗本より、優れております。殿の御推挙なさる人物なら――やがては、日本を背負って立つ底《てい》の――」
「それは判らんが、何時か、どこかで、逢う日があろう。わしは、勝という偉者が、徳川にいるということを、この連中に、伝えておこう。敵として逢っても頼もしいし、手を握るならこの上もない」
「忝なく存じます。それでは、手前、これにてお暇仕ります」
「久し振りで、気の合うた話をして、晴々とした。もう、帰国までに、会えまいが、くれぐれも、日本のために働いてくれ。頼む」
「はい」
勝は、これまで逢った何の大名よりも、親しく、友人のように、師のように、話をしてくれた斉彬の別れの言葉に、感激して、涙が出て来るように感じた。
「これ」
斉彬は、次の間の近侍を呼んだ。
「お帰りになるぞ」
「日本のために――」
勝は、手をついて、溢れ上ってくる感激を、眼の中に燃えさせて
「御自愛下されますよう」
「うむ――疲れたぞ、勝。いろいろのものと、闘って来たわい――よく、闘ったわい」
斉彬が、こういうと同時に、勝は、はらはらと、涙を落した。
「わしは子を亡くするので、家来を、皆わが子だと思うているが、その子同士が、よいとか、よくないとか、争ってのう――」
勝は、だんだん頭を下げて行った。斉彬は海の方を眺めている。
「斉彬様、いよいよ御世継のことと、御内定に、相成りました由、只今、御家老御用人より、お知らせが、参りましてござります」
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