、と、額へ手を当てた時、足音が、土間の中へ入って来た。
(庄吉ではないらしい)
と、思うと、失望と、うるささとで、そのまま、見向きもしなかった。入って来た男が、そのまま黙って立っているらしく、足音も、格子の音もしなかった。
「誰?」
富士春は、俯向いたまま、咎めるように聞いた。
「俺だ」
聞いたことのない声であった。
「誰?――何んの御用?」
富士春が顔を上げると、土間の提灯の下に、頬冠りをした町人風の男が、立っていた。そして
「富士春、そちゃ、見忘れたか?」
下手な仮声《こわいろ》であった。富士春は、うるさくもあったし、そうした茶番に、腹立たしさを感じた。それで、黙って、又、俯向くと
「益満だあ」
手拭をとると、益満であった。頭を、町人風に結んで、前掛をしめ、刀も差していなかった。
「おや」
富士春は、益満なら、いろいろ聞きたいこともあり、聞いてほしいこともあると――笑顔になって
「まあ、そのお身なりは?」
「押掛け聟になろうと――何うじゃ、よく似つくであろうが――」
と、云いながら、上って来た。
「火も、おこさずと――」
富士春は、火箸で、小さく消え残っている炭火を集めて
「久しゅう見えずに――何うなさいました?」
益満を、見上げた眼は、いつものような色っぽさと同時に、縋りたいとしているような色が現れていた。
「いろいろと、庄吉同様、又、富士春同様に、苦労をしてのう」
「そして、また、そのお身なりは?」
「無断で屋敷を飛び出したゆえ、殿への詫なり、二つには又、庄吉の身代りとして、この家へ入り込むからは、こうした粋な姿になって――」
「庄吉の身代りに入り込むって、願ってもないことでござんすが、そりゃ、庄吉も、承知の上で?」
富士春は、火種へ、眼を落して、心の動揺を見せまいとしていた。
「と、申すのは、実は、偽り――」
富士春は、人の気もしらないで、又、いつものように、からかってと、思うと、好きな益満にさえ、鋭い眼を向けた。益満は、その眼を、じっと見つめて
「庄公とは、昨夜逢った。庄公は、惚れておるぞ。しかし、訳があって、暫く、旅じゃ。これは、庄吉からの、ことづかりもの」
益満は、こう云って、懐中から、小さい包を出した。その重さで、金だと判っていた。富士春は、庄吉が、急に、そんな金のできる筈がないと、信じていたし、益満が、何も、かも、呑み込んでの計らいだとも思えた。それで
「ことづかりもの、実は、偽り――」
と、益満へ微笑んで、云った。
「何れにもせよ。流しでは暮せまい。又、某から頼みたいこともあり、とにかく、庄吉の身の上は、益満がしかと引受けるから、黙って、化粧でもして――さ、気を浮立たせて、久し振りに
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三日月さまかや、ちらと見た
細身の刀は、主かいな
小唄|吟《ずさ》みで、辻斬りの
前髪若衆の、色袴
[#ここで字下げ終わり]
富士春、お前のように浮気者にも操があるように、庄吉にも、真心があるぞ。くよくよするな。然し、齢は争えぬ、化粧をせんと、そろそろ、小皺が、目立って来たのう」
益満は、火鉢越しに、覗き込んだ。
「ええ、だから、男は――庄吉だけは、末長うと思いましたに――」
「庄吉も、同じ台詞《せりふ》を云いよったぞ。長うはない。四五日で戻る。或いは、こういう内に戻るかもしれぬ。さ、髪を結うて、化粧をして、着物を――蔵から出して来て――」
益満は、金包を、眼でさして
「その辺へ、仕舞っときな」
「でも――」
「と、遠慮するような、昔は、仲でなかったのう。お前、湯へ行って来る間に、俺あ、肴をあつらえておかあ。何うじゃ。姿も町人なら、言葉も、上手であろう。益満休之助、神出鬼没、江戸中を――江戸中の女を、引っ掻き廻す――これが、隠れ蓑」
「腰が、淋しゅうござんせんか」
「野暮な邸の、大小棄てて、と、唄にあろう――富士春、もう一度、わしと、昔のようになってもよいぞ。それなら、このまま、町人暮しもしよう。ま、暫くは、庄吉恋し、その内、去る者、日々に疎しでのう。これでも、捨てた男ではあるまい。のう、婆あ。湯へ入って来い」
富士春は、益満の、何処をつかまえていいのか判らなかったが、包の金が多分らしいので、ほっと安心をした。そして
「では、その間、留守番を」
と、快活にいうと
「その間、小唄でも――」
と、云って、益満は、柱にかけてある三味線を取りに立上った。
「こりゃ又、異な姿だのう。何んと致した」
名越左源太は、襖を開けて入ると同時に、坐りもしないで、笑った。益満は
「遅参致しました」
と、両手をついて、挨拶した。部屋は、茶室造りであったが、庭は、石一つない、粗末なものであった。
「外のことでないが、大殿が、御帰国になったに就いて、国許の同志は、君側の奸者共を一挙
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