しく突き出していた。
「保《も》つまいか」
「さあ――」
 仁十郎と、医者とが、こう云った途端
「うーむ」
 玄白斎の頬に、血の色が差して、眼を開いた。然し、その眼には、もう生気が無くなっていた。玄白斎は、じっと、その疲れた眼で、天井を眺めていたが、仁十郎の方へ一寸、眼を動かして
「刀を――」
 と、云った。
「はい」
 仁十郎は、何故、刀を持てと云ったのか判らなかったので、返事をしたまま、立たなかった。玄白斎も、そう云ったまま、暫く、黙って、眼を閉じていた。
(平生から、御壮健な方だから、このまま、よくなればよいが――)
 と、人々は思った。
「刀」
「はい」
「何故、持って参らぬ。このままわしを、不忠者として、殺す所存か」
 玄白斎は、一寸、頭を仁十郎の方に向けて睨みつけた。
「只今」
 仁十郎が立上ろうとすると
 一人が床の間から、刀を持って来た。仁十郎は、それを枕辺に置いた。
「起してくれんか」
 医者が
「老師、それは、なりませぬ。このまま、このまま」
 手を出して、蒲団の上から押えた。玄白斎は、力無さそうに、蒲団から、両手を出して、その手を除けて
「わしを、生かそうと――それは、忝ないが、無駄じゃ」
「左様なことを――」
「仁十、後方から、抱き起してくれ。もう、体力も、気力も無うなった。ただ未だ、腹は――切れる」
 人々は、はっとした。刀を持って来いという意味が、初めて判った。
「先生、腹を召すなどと――」
 玄白斎は、それに答えないで、身体を横にして、自分で起き上ろうとしかけた。仁十郎と、市助とが、左右から
「先生」
 と、云いつつ、抱きかかえた。
「長年わしの下におって、わしの心が、判らんか」
 玄白斎は、そう呟きつつ、じりじり身体を立ててきた。

 玄白斎は、床の上へ坐って、人々の顔を見廻した。それから
「皆、よく聞け」
 と、云ったまま、咳き入った。二人が、背を撫でた。
「わしは、見る通り、最早、己一人で、起き直る力も無うなった。又――」
 肩で、大きい呼吸をして、暫く、黙っていたが、女中の運んで来た薬湯を、仁十郎の手から一口飲んで
「人に優った気力も、使い果してしもうた。兵道家として、最早、命数が尽きた。抜け殻の身じゃ」
 静かな、というよりも、墓穴の中から、話しかけている人の声のように、微かであった。
「最早――御奉公は勤まらぬ」
 玄白斎は、俯向いて、ゆるやかに、首を振った。
「勤まらぬのみではない、不忠者にも、なった。牧の性根を、見損じた。あれを――」
 玄白斎は、仁十郎を見た。
「久七峠で、斬らなんだ――わしの、生涯の失策であった。わしは、あれを赦してやったが、あいつは、わしを赦さない。わしの、老いた気力を見込んで、呪殺しようとしおった。わしは、呪法争いに負けた」
 人々の顔に、微かな殺気が立って来たが、誰も、口を利かなかった。
「わしが、精力を尽し果して倒れるからには、斉彬公の御命数も危い。これ、皆、この玄白の至らぬ業じゃ。わしの罪じゃ。彼奴《きゃつ》を赦したわしの落度じゃ」
 玄白斎は、俯向いた。
「一つは、その、落度を、君公に詫びる上から――二つには、わしが兵道家としての、最期を、飾りたいがため――腹をする」
 人々は、玄白斎が、こう云ったのを、悲しく聞いていたが、誰も、この枯木のような玄白斎に、腹を切る力があろうとは思わなかった。それで、とにかく、一生懸命になだめて、身体を元通りにしたなら、と、考えていた。
「刀を――」
 と、玄白斎が、手を延した。一人が
「いいえ、先生、御身体を、もう一度――」
 と、まで、云うと、玄白斎は、鋭く睨みつけて
「たわけ者めがっ」
 と、怒鳴った。そして
「仁十郎、貸せ」
 仁十郎は、玄白斎の背に、軽く、手をかけて、身体を支えていたが
「先生、それは――」
「か、貸さぬかっ」
 玄白斎は、立上りかけた。一人が、刀を、自分の膝の上へ持ち上げた。医者が
「とにかく、御本復なされて――」
 玄白斎は、黙って、痩せた手で、仁十郎の手と、市助の手とを、狂人のように打ち払った。そして、よろよろと、立上ると
「牧っ」
 と、叫んだ。手を顫わして
「現世のみならず、永劫の争いじゃぞ。共に、無間《むげん》地獄に墜ちて、悪鬼と化しても、争うぞ。一旦の勝を、勝と思うな。三界、三世に亙《わた》って争うぞ」
 いつもの玄白斎の気魄の充ちた声であった。だが、そういい終ると、よろめいた。二人が抱えると
「刀を――げ、玄白斎の最期の血を、魔天に捧げて、あの世の呪いとなしくれる。か、刀を――」
 人々は、悪霊に憑《つ》かれたような玄白斎を、じっと見つめたまま、息を殺していた。
「か、かさぬかっ。己ら、この玄白を見殺しにするかっ。放せっ、仁十っ、市助っ」
 二人を振切るはずみ、玄白斎は、朽木の
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