だ。
「除《ど》きな」
 と、人々の肩を押分けて、前へ出て来た。人々が、振向いて、男を見て、笑った。

「よう、先生っ」
 と、見物の一人が叫んだ。
「南玉《なんぎょく》、しっかり」
「頼むぜっ」
 南玉は、麻の十徳を着て、扇を右手に握って
「今日は、若旦那」
 と、小藤次に、挨拶をした。小藤次は、振向いて、南玉の顔を見ると、一寸うなずいただけで、すぐに、小太郎を睨みつけた。
「今日は」
 小太郎は
「やあ」
 と、答えた。桃牛舎南玉という講釈師で、町内の馴染男であった。小太郎の隣長屋にいる益満休之助のところへよく出入しているので、知っていた。
「喧嘩ですかい、ええ?」
 南玉が、こう聞いたのに返事もしないで、小藤次が
「おいっ、何うする気だ」
 群集が、どよめいて、南玉の立っている後方の人々の中から、庄吉が、土色の顔をしてのめるように出て来た。職人が、振向いて、庄吉の顔から、左手に光っている短刀へ、ちらっと、目を閃《ひらめ》かして
「若旦那っ、庄吉が――」
 庄吉は、職人の止めようと出した手を、身体で掻き分けて
「さあ、殺すか、殺されるか、小僧っ」
 南玉が、両手を突き出して
「いけねえ」
 と、叫んだ。
「庄っ、待てっ」
 小藤次が、周章《あわ》てて、庄吉の肩を押えた。
「待て、庄公」
 同じように、職人が、肩をもった。
「手前なんぞの、青っ臭えのに、骨を折られて、このまま引っ込んじゃ、仲間へ面出しができねえや――若旦那、止めちゃあいけねえ。後生だから――」
 庄吉は、乱れた髪、土のついた着物をもがいて、職人の押えている手の中から、小太郎へ飛びかかろうとした。
「無理もない。大工が、手を折られちゃ、俺が舌を抜かれたようなもんだからのう――小旦那、どうして又、手なんぞ、折りなすったのですい」
 南玉が、聞いた。小太郎は、微笑しただけであった。
「放せったら、こいつ」
 と、庄吉が叫んで、一人の職人へ、泣顔になりながら、怒鳴った。
「だって、お前、お役人でも来たら」
「来たっていいよ。放せったら――」
 庄吉は、口惜しさと、小太郎の冷静さに対する怒りから、涙を滲ませるまでに、興奮して来た。二人の職人が、短刀を持っている手を、腕を、押えていた。
「放せっ――放してくれ、後生だっ」
 庄吉は、泣声で叫んだ。
「話は、俺がつける。庄吉」
 小藤次は、こういって、職人に、眼で、庄吉をつれて行け、と指図した。
「庄公、落ちついて――取乱しちゃ――」
「取乱す?――べらぼうめ――放せったら、こいつ、放さねえか」
 庄吉は、肩を烈しく揺すって、一人を蹴った。
「とにかく、ここで、話はできねえ、俺んとこまで、一緒に来てくれ」
 小藤次が、こういった時、群集の後方から、大きい声で
「仙波っ、何をしている。寛之助様、お亡くなりになったぞ」
 と、口早に叫んだものがあった。

 小太郎も、小藤次も、その声の方へ、眼をやった。群集の肩を、押|除《の》けているのは、益満であった。
 小太郎は、益満の顔を、じっと見ながら、庄吉を無理矢理に押して行く職人の、後方を、益満へ足早に近づいて
「何時?」
 と、叫んだ。それが、事実であったなら、父母は、離別しなければならないのであった。
「今し方」
「誰から聞いたか?」
 二人は、群集の、二人を見る顔の真中で、じっと、お互に、胸の中の判る眼を、見合せた。
「名越殿から――すぐ戻れっ。下らぬ人足を対手にしておる時でない」
 益満は、小藤次の顔を睨みつけた。小藤次は、乱暴者としての益満と、才人としての益満とを、見もしたし、聞いてもいた。それよりも、今の、寛之助が死んだ、という言葉が、小藤次の心を喜ばした。
(妹が、喜ぶだろう)
 と、思うと同時に、もし、妹の子の久光が島津の当主になったなら、俺は、益満も、この小僧も、ぐうの音も出ないような身分になれるんだ、と考えた。そして、そう考えると、益満が
「下らぬ人足」
 と、いったのも、小太郎の振舞も、大して腹が立たなくなってきた。だが、二人が、群集の中を分けて行こうとするのへ
「何うするんだ」
 と、浴せかけた。益満が、仙波に、何か囁いた。仙波が、庄吉の方を顎で指して、何か云った。
「利武っ」
 と、益満が怒鳴った。
「大工の守《かみ》利武なんぞに懸け合われる筋もないことだ。申し分があれば、月番まで申して出い。掏摸の後押しをしたり、お妾の尻押しをしたり――それとも果し合うならな、束になってかかって参れ、材木を削るよりも、手答えがあるぞ」
 益満の毒舌は、小藤次の啖呵《たんか》よりも、上手であった。小藤次は士言葉で、巧妙な啖呵を切る益満に、驚嘆した。
(おれなんぞ、職人言葉なら、相当、べらべら喋るが、御座り奉る言葉じゃあ、用件も、満足に足せねえのに、掏摸の後押し、妾の尻押し、
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