次が、呟いて、走りかけた。一人が後方から
「刀っ」
 小藤次が、振向いて
「早く、持って来いっ」
 と、手を出した。二人が、泥足のまま、奥へ走り込んだ。若い者は、鋸《のこぎり》、鑿《のみ》、棒を持って、走り出した。近所の若い者が、それについて、同じように走った。
 小藤次は、受取った刀を差しながら、その後方から走り出した。
「喧嘩だ」
「喧嘩だっ」
 叫び声が、往来で、軒下で、家の中でした。犬が吠えて走った。子供が走った。
 庄吉は、手首の痛みに、言葉も、脚も出なかった。立上って、小太郎の後姿を、ぼんやり眺めていると
「庄吉っ」
 若い者が、前後からのぞき込んで
「何うした?」
「掏った」
 低い声で、答えて、懐中から、印籠を出した。小藤次らが、追いついて来て
「庄吉、何うした」
「えれえ事をやりゃあがった。痛えっ」
 庄吉は、左手の印籠を、一人に渡して、左手を添えて、袖口から折れた右手を、そろそろと出した。手首の色が変って、だらりと、手が下っていた。
「折りゃあがったんだ」
「折った?」
 一人が叫んで
「畜生っ」
 その男は、鋸を持って走り出した。
「掏摸が、右手を折られりゃ、河童の皿を破《わ》られたんと、おんなじことさ」
 小藤次は、自分の言葉から、一人の名人を台なしにしたことに、責任を感じた。
「待ってろ、庄吉」
 小藤次が、行きかけると、若い者が、走り出した。
「逸《はや》まっちゃならねえ」
 小藤次は、その後方へ、注意して、自分も走り出した。
 小太郎は、小半町余り、行っていたが、走り寄る足音に、振向くと、一人の男が、鋸を構えて
「待てっ、おいっ」
 その後方からも、得物をもった若い者が、走って来ていた。小太郎は、眼を険しくすると、一軒の家の軒下へ、たたっと、走り込んで、身構えした。
「あいつ――何んとか――」
 走りながら、小藤次が呟いて
「俺んとこの、家中の奴だ。何とかいった――軽輩だ」
 と、自分の横に走っている若者へいった。
「御存じの奴ですかい」
 そう答えながら若い者は、小太郎の前で、走りとまった。

「小藤次氏」
 岡田小藤次は、仙波小太郎の顔に見覚えのあるほか、姓も、身分も知らなかったが、小太郎は、お由羅の兄として、家中の、お笑い草として、大工上りの小藤次利武を、十分に知っていた。
 小藤次は、そういって微笑している小太郎の顔を睨みつけながら、走って来た息切れと、怒りとで、言葉が出なかった。ただ、心の中では
(何を、吐《ぬ》かしゃあがる)
 と、叫んでいた。小藤次にとって、士分になったのは、勿論、得意ではあったが、岡田利武という鹿爪《しかつめ》らしさは、自分でも可笑《おか》しかった。そして、自分では、可笑しかったが、人から
「利武殿」
 とか
「小藤次氏」
 とか、呼ばれるのには、腹が立った。軽蔑され、冷笑されているように聞えて、上役の人々からそう呼ばれるのはとにかく、軽輩から
「小藤次殿」
 などと、呼ばれると
「面白くねえ、岡田と呼んでくんねえ」
 と、わざと、職人言葉になった。
 若い者が、じりじり得物を持って、威嚇《おど》しにかかるのを、手で止めて
「手前《てめえ》、誰だ」
 と、小藤次は、十分の落ちつきを見せていった。
「仙波小太郎」
「役は?」
「無役」
「無役?」
 往来の人々が、職人の後方へ、群がってきた。小藤次は、近所の人々の手前、この小生意気な若侍を、何んとか、うまく懲さなくてはならぬように思った。
 齢は、小藤次より、二つ三つ下であろうが、身の丈は、三四寸も、高かった。蒼ざめた顔に、笑を浮べて、鯉口を切ったまま、小藤次の眼を、じっと、凝視めていたが
「御用か」
「用だから、来たんだ。手前、さっきの人間の手を折ったな」
「如何にも――」
「如何にもって、一体、何うするんだ。人間にゃ、出来心って奴があるんだ。出来心って――つい、ふらふらっと、出来心だ。なあ。それに、手を折って済むけえ。納得の行くように、始末をつけてくれ、始末を――始末をつけなけりゃ、俺から、大殿様へ御願えしても、相当のことはするつもりだ。人間の出来心ってのは、こんな日和《ひより》には、ふらふらと起るものだ。それに、手を折るなんて――」
「ふらふらっと、出来心じゃ」
 小藤次の顔が、さっと赤くなると
「何っ」
 と、叫んだ。職人が、じりっと、一足進み出た。
「出来心だ?――出来心で、人様の手を折って――じゃあ、手前、出来心で、殺されても文句は無えな。馬鹿にするねえ、この野郎、人の手を折っときゃあがって、出来心だ? 出来心が聞いて呆れらあ」
「親方、やっつけてしまいなせえ。野郎の手を折りゃ、元々だ」
 職人が、喚いて、得物を動かした。
「猫、鳶に、河童の屁」
 と、通りがかりの男が大きい声をして、人々の後方から覗き込ん
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