の小者さえ、倹約しなければならぬ貧しさであった。
それが蔵屋敷であったから、三田の本邸、大手内の装束邸のように立派な門ではなかったが、広々と取廻した土塀、秋日に冴えている土蔵の白壁、玄関までつづいている小石敷――七瀬は、これを悉く、調所笑左衛門が一人の腕で造り上げ――そして、自分が、その調所を敵にするのだ、と思うと、一つの柱、小石の一つからでも、気押されそうな気がした。七瀬は、裾を下ろし、髪へ手を当てて押えてから、綱手へ
「よいか」
と、振向いた。短い言葉であったが、すべての最後のもの――決心、覚悟、生別などが、この中には、含まれていた。綱手は、俯向いた。胸が騒いだ。
「御用人様へ、御目にかかりに通ります」
と、門番に挨拶して、広々とした玄関の見えるところの左手にある内玄関にかかった。取次に、名越左源太からの書状を渡して
「御用人様へ」
と、いうと、暫くの後に、女中が出て来て、薄暗い廊下をいくつも曲り、中庭をいくつか横にしてから、陰気な、小さな部屋へ通された。二人は、入ったところの隅にくっついて坐った。
女中の足音が、廊下の遠くへ消え去ると、物音一つ聞えない部屋であった。二方は、北宋の山水襖、床の方にも同じ袋戸棚と、掛物。障子から来る明りは、二坪程の中庭の上から来る鈍い光だけであった。
「よう、覚悟しているであろうな」
「はい」
七瀬は、そういって、暫くしてから
「こう云うのは、何んであるが――母の口から云うべきことでないが――もう、或いは、一生の間、逢えぬかと思うから、申しますが、お前――益満さんを」
綱手は俯向いて、真赤になった。七瀬は、ちらっと、それを見たが、見ぬような振りをして
「――ではないかと、母は思いますが」
綱手は、俯向いているだけであった。
「益満さんは、ああいう方じゃが――もし、そうなら――機を見て――綱手」
七瀬は、綱手を覗き込んだ。
「厭なのではあるまい」
綱手は、頷いた。
「わかりました――」
「然し、お母様、妾は――」
綱手の声は、湿っていた。
「いいえ、心配なさんな――妾には、益満さんのお心は、よう判っております」
「でも、一旦、操を――」
と、云った時、廊下に、忙しい足音がして
「よいよい」
と、いう声がすると、障子が開いて、老人が入って来た。二人は、平伏した。
「よう来た。わしは、調所じゃ」
二人は、平伏したまま、身体を固くした。調所が出し抜けに出て来るとは、二人の考えないことであった。
「御家老様とも存じませず、無調法を致しまして――」
「何々、この娘子は、お前のか」
「はい、至って不つつかな――」
「美しい女子じゃが、嫁入前かの」
「はい」
「よい聟があるが何うじゃ。侍でないといかんかな。これからはお前達、町人の世の中だぞ。金の物云う世の中じゃぞ。肩肱、張って騒ぐより、算盤を弾く方が大事じゃ。手紙でみると、お前の夫は何か騒ぎ立てているらしいが、そんな夫に同意せずと、離別されて、こうして国へ戻る方が、人間は利口じゃ」
「何う諫めましても聞き入れませず、妾は離別、又、これの下に、もう一人妹がござりますが、姉妹同士でも、意見のちがいがござりましょうか、二人だけがこうして離れて参りましたような訳、国許へまでの路銀が足りませぬゆえ、申し難うござりまするが、これを暫く、女中代りになりと、此処へお留めおきを願い、その間に、妾一人国許へ戻りまして、すぐ迎えに参じましょうと、御無理な、虫のよい御願いでござりますが、元家中の者のよしみをもちまして、このこと御願い致しとう存じまする」
「徒党を組んでおるのは、幾人程かの」
「さ、少しも、夫は、妾に洩らしませぬゆえ」
「成る程――そして、此後、何んとするな、お前達」
「国へ戻りまして」
「居候か」
「親族もおりますことなり」
「裁許掛見習では、親族も、大したことはあるまい。何うじゃ、嫁入しては――一片づきに片付くではないか。ここへ置くのは、易いことじゃが、仙波の娘とあっては、万一の時に――と、申すのは色仕掛の間者など、よく芝居にもある手でのう。若侍だのは――」
七瀬と、綱手とは、色仕掛の間者という言葉に内心の騒ぎを、顔へ出すまいと、俯向いて、必死に押えていた。そして、到底、女二人の智慧ぐらいで対手のできる人でないかもしれぬと考えた。
「――気が早いから、万一の時に困るで――何うじゃ、対手は、歴とした町人じゃ。この調所が太鼓判を押す。名を明かしてもよい。存じておろう、浜村孫兵衛。わしが、大阪町人からの借財を二百五十年年賦ということにしたのは、この浜村の智慧を借りたのじゃが、それが訴訟になってのう。浜村め、気の毒に敗訴して、大阪所払い、只今、泉州堺におるが、その倅の嫁を、わしに頼んでおる。二百石、三百石の侍より、町人の方がよいぞ。ここへ
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