いるんだ、と聞くと、自分の財産を守るのに、周章てていた。
「お梅、早う、天井へ、隠れんかいな」
 と、母親は、大風呂敷の中へ、入りきらない大蒲団を包みながら、怒鳴った。
「あて、天井へ入れて、焼けて来たら、死ぬがな」
 娘は、顔を歪めて、自分の晴着を、抱きしめながら、顔色を変えていた。
「愚図愚図云わんと、早う、隠れさらせ」
 父親は、店の間から怒鳴った。
「お尻《いど》、押して上げるさかい――この子、早《はよ》来《こ》んかいな」
 娘は、裾を合せて、天井へ這い込んだ。母親は、娘の白い、張りきった足を見て
(早う養子を貰わんと、こんな時に、かなん)
 と、思った。女中は、台所の上げ板の中に、早くから、もぐっていた。
 べきん、めりっ、と、戸を、木を折り、挫く音が聞え出した。わーっと、鬨の声が上った。非人と、窮民中の無頼の徒とは、煙の下から、勝手に四方へ走って、町家を襲った。そして、近所の人々と、ついて走って来た弥次馬とは、戸が破れ、品物が引きずり出されると
「やったれやったれ」
 と、懸声しながら、乞食の脚下の品物を懐へ入れたり、担いで逃げたりした。乞食は、英雄のように、突っ立って、棒を振りながら
「御仁政じゃ、御仁政じゃ。皆んな寄って、持ってけ」
 と、叫んでいた。気の利いた人は、ありったけの米を、檐下へ積んで、家内中が
「施しじゃ、施しじゃ」
 と、蒼くなって叫び立てていた。暴徒は、こういう家の前へ来ると
「ここの嬶《かかあ》、別嬪やなあ」
 とか
「米の代りに、嬶くれえ」
 とか、怒鳴った。そして、家の人々が逃げ込むと、戸がめちゃめちゃになったが、耐えていると、米だけ持って行くか、乞食が女の手を握るくらいで済んでしまった。
 奉行の手から、鉄砲を打ち出す頃になると、暴民は、退却しかけて、浮浪の徒は、侍屋敷の人々と、町方の人足のために、食い止められてしまった。
 憑かれたように、手を振り、棒を振って、喚きながら歩いて来た無頼の一隊が、角を曲ると、薩摩の侍が、四角い白地の旗に丸に十の印をつけて、整然として、二尺ずつの間を開けて、槍を立てていた。
「侍がいよる」
 と、立止まると、流れるように、くっついて来た弥次馬が
「やれやれ」
 と、遠く、後方から声援した。だが、士が槍を引いて、鞘を外して、穂先が光ると、乞食も、人々も、雪崩れ出した。

(五百万両を、帳消し同様にしたのは、今から思えば、ひどかった。窮民の暴徒が起ったのも、少しはわしの罪もあるかな――然し、そうしなければ、あの時は、仕方が無かった――)
 調所は、思い出して、声を立てて笑った。
「良介、西の宮へ泊ったことを憶えているか」
「いや、あの時には――」
 二人は、声を合せて笑った。往来を走る人がだんだん多くなってきた。けたたましい叫びと、車の音がした。
 斉興は、借金取のために、大阪に泊れなかったので、西の宮へ宿をとると、大阪町人が一度に押しかけて来て借金の催促をした時の、可笑しさを思い出したのであった。
 その当時は、駕人足さえ雇えなかったので、使は、誰でも歩いた。道中人夫は、薩摩と聞くと対手にしないで、士分の人が、荷物を担いだ。邸の修繕は玄関までで、庭には草が延びていて、士が刈って馬にやっていた。
 そういう十年余り前のことを思うと――今は、何うだろう。芝、高輪、桜田、西向、南向、田町、堀端の諸邸の壁の白さ、こうして坐っている大阪上、中、下邸の新築、日光宿坊、上野宿坊を初め、京の錦小路の邸の修復、三都には、斉興御来邸厳封の金蔵に、百万両ずつの軍用金の積立さえできた。
 調所は、こう考えてきた時、はっとした。斉彬の世になったなら?
(未だ仕事が残っている。琉球方用船の新造、火薬の貯蓄、台場の築造、道路、河川の修繕――)
 斉彬は、年が若い。幕府の狸の手に、うまうま乗って、この金を使うようになったなら、それこそ、御家滅亡の時だ――。
 邸の表に人声が、騒がしくすると、廊下へ荒い足音がして
「申し上げます。窮民共が、米屋、両替を、ぶちこわしに歩いておりますが、御城内よりは、支配方が繰出しましてござりまする」
「邸の手配はよいか」
「十分でござります」
「水の手の支配は、佐川に申し付けえ。竜吐水を、邸の周囲へ置いて」
 六十を越したが、未だ年に二度ずつ、大阪を出て、江戸から、鹿児島へ巡廻して来る元気のある調所は
「馬の支度」
「御前が――」
「見に参る。何ういう様子か」
「危うござります。お止めなされませ」
 近侍が、眉をひそめて、こういった時
「御国許より、牧仲太郎殿、御目通を願いに出られましたが――」
 と、襖越しに、物静かな声で、取次侍が、知らせてきた。
「牧が――」
 調所は、半分立ちかけていた腰をおろして
「すぐ案内せい、鄭重に――」
 物をこわす音が、少し
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