知らず、既に浪人した小太郎が、町家での所業を、わざわざ以て、何が故に、島津家の横目付が出かけた。三田四国町の岡田小藤次ならば、お由羅の方の兄であろう。主君の愛妾の兄の家ゆえに、町奉行の職権を犯してまでも、処置をしに参ったか? 目付とは、何んじゃ。人の不正を見て、これを正すのが役でないか? その目付が、自ら、法を枉《ま》げて、軽々しくも、辻番所へ出張するなど、近頃以て、奇怪千万。島津の目付が、町奉行の下働きになったなど、いつ頃からか、後学のために聞こう。四ツ本、いつから、町奉行の下役になった?」
 仙波の表に、二三人の人が立って、二人の高声を聞いていた。小太郎も、七瀬も、姉妹も、不安な胸の中にも、四ツ本をやり込める父の言葉を微笑しながら、聞いていた。小太郎は、四ツ本から見えるところへ、身体を出して、左手に太刀を立てて、じっとその顔を睨みつけていた。
 四ツ本は、八郎太が、こんな強硬な態度で、こんな理窟をいおうなどと、考えてもいなかった。蒼白になって、拳を顫わせていた。云い込められた口借しさに、脣が、びくぴく痙攣していた。
「よしっ――」
 四ツ本は、鋭く叫んで、身体を斜にした。そして
「道具を運び出せっ」
 と、小者の方へ、手を振って指図した。小者が一足踏み出すと、八郎太が、式台へ片足を音高く踏み下ろして、脇差へ手をかけた。小太郎が、兎のように飛び出て来て、三尺に近い刀を、どんと、式台へ轟かした。小者達は、そのまま止まってしまった。
「何うなされた」
 表に見物していた家中の一人が、入って来て、声をかけた。四ツ本は、激怒で、口が利けなかった。八郎太が
「人間、切腹の覚悟さえあれば、何も、恐ろしいものはない――叩っ斬って腹を切るまでだ」
 と、独り言のように、大きく呟いた。
「四ツ本氏」
 四ツ本は、黙っていた。
「仙波氏も、穏かになされたら――」
 と、いった時
「よしっ、人数をかりても、処置はする」
 八郎太と同じように、独りごちて、四ツ本が出て行ってしまった。小者も、すぐ、四ツ本に蹤《つ》いて出てしまった。
「馬鹿がっ」
 八郎太は、身構えを解いて、吐き出すように呟いた。

「小太郎、表を閉めて、あらましの品を、庭から、益満のところへ運んでおけ」
 八郎太は、こういって、小走りに部屋へはいると、小者に、鎧櫃《よろいびつ》の一つを背負わせ、自分もその一つを背にして、垣根から、益満の廊下へ運んだ。益満は留守らしく、勝手口から、爺が出て来て
「旦那様」
「物を運ぶから頼むぞ」
「手前も御手伝い致します」
 三人が、垣根のところへ引返すと、七瀬と、綱手とが、大きい包物を持って来た。小太郎が、仏壇を抱いて、よろめきつつ、廊下から降りて来た。深雪は、人形の箱と、位牌を持って
「危い」
 小太郎の後方で、重さによろめく小太郎の脚へ眉をひそめていた。庭の土は、雨で泥になっていた。垣根は、茂った葉で、一度跨ぐと、裾がぐしょぐしょになった。父子が、雨に打たれながら、二三度往復した時
「開けろっ」
 表が、けたたましく叩かれた。八郎太が、縁側から
「深雪、早くっ」
 と、叫んだ。深雪は、周章てて垣根に袖を引っかけながら、入って来た。
「たわけ者が又うせおった」
 と、自分も、着物の濡れたのを拭きながら、裾を、肩を気にしている娘に、小太郎に
「わしらのすることは、これからじゃで、今、何をされても、手出しをしてはならぬ」
 そう云って、小太郎を見た。小太郎は
「よくわかっております」
 戸が、苦しそうに、軋り音を立てた。御家の邸内で、厳しい用心がしてないから、すぐ、閂が外れたらしく、土間へ棒の転がる音がした。
「仙波っ――仙波」
 誰も、答えなかった。どかどかと、踏み込んで来る足音がした。玄関の襖が開いた。廊下が轟いた。次の間へ来た。襖が開かれた。
 もう、暮れかかっていて、部屋の中は、夜色が沈んでいた。庭の植込みは、すっかり暗くて、牡丹の花だけが、白く、だが、雨にうなだれていた。
 襖の後方いっぱいに、足軽が、小者が――そして、水の溢れるように、襖から入って来て、その両側へ、溢れ出て来た。四ツ本の上席にいる佐田が
「仙波、即刻に立退くか、立退かぬか、何れか、この返答だけを聞きたい」
 足軽が、棒を取り直した。
「是非もない」
 八郎太は、立上った。
「小太郎、長持を運べ――いや、待て――佐田氏、人間には足があって、すぐにも、御門前へ出られるが、この長持、諸道具と申す輩《やから》には、不憫《ふびん》ながら、足が無うて」
「道具類は、小者が持ち出そう」
 佐田は、仙波が、すぐ承知したのに、軽い失望と、大きい安心とをしながら
「諸道具類を残らず、門前へ運び出せ」
 仙波父子は、暗い廊下を、人々の中を、玄関へ出た。
「深雪、益満のところへ行っておれ、邪魔に
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