この手を」
 といって、片手を、懐から出した。大きく布で手首を包んであった。
「こいつを、お嬢さんの、兄さんが、折ったのでござんすが、こいつあ、確かに、あっしが悪かったんでげす」
 自身番の前は、まだ、人だかりであった。深雪は、本当とも、嘘とも判らぬ話を、妙な男から聞いているよりも、早く、兄のことを確めたかった。
「お嬢さん、お供いたしまして、お兄さんの前で、申しましょう」
 庄吉は、こういいながら、じっと、深雪の頬、襟足を眺めて、ついて行った。

 辻番所の前には、まだ人が集まっていた。傘と、傘とが重なり合って、入口も、屋根も見えなかった。
「ちょいと御免なさい――お前さん、ちょいと、肩を片づけてくんな」
 庄吉は、右手を懐に、頭から雨に濡れながら、群集を、左手で、肩で、言葉で押し分けて入って行った。
「やいっ、肩を押しゃがって、何んだ」
「お嬢さんのお供だ、おっかない顔をしなさんな」
 庄吉の後方に、傘をすぼめて、顔を隠した深雪がついていた。人垣を抜けると、番所の入口に、仲間《ちゅうげん》が一人、番人が一人、腰かけていた。薄暗い中の方に、四五人の士姿が見えた。庄吉が
「今日は」
 番人は庄吉への挨拶をしないで、その後方に佇んだ深雪を、怪訝《けげん》そうにじっと眺めた。
「まだ、お調べ中かい」
「うん」
「何んだか、大勢、見えてるじゃないか」
「三田の御屋敷から、今見えたのだ」
 深雪は、一心に、中の方を見て、兄の姿、兄の声を知ろうとしていたが、今の番人の言葉を聞くと、胸をどきんとさせて、その顔をちらっと見た。番人は、庄吉の蔭になっている深雪の顔へ、顎をしゃくって
「何んだえ」
 と、庄吉に囁いた。
「あの士の妹さんさ。ちょっと、逢いてえが、いいかい」
「願ってみな」
 庄吉は、土間を、中戸の方へ行って、小腰をかがめて
「御免なさいまし」
 一人が、振り向いたが、じろっと庄吉を見たまま、黙って、元の方へ顔をやった。庄吉は
(こん畜生っ、何を、威張ってやがる)
 と、憤りながら
「一寸、お願い申しやす」
「何んだ、貴様は――」
 又、その侍が振向いて、睨んだ。そして、深雪が、群集の前に、浮絵のような鮮かさで立っているのに気がつくと、じっと、その顔へ、見入ってしまった。庄吉は、心の中で
(この甘酒野郎。女の顔を見て、とろとろにとけてやあがる)
 と、冷笑しながら
「ただ今のお侍衆へ、あの、お妹さんが、一寸お目にかかりたいと――」
「あれが、妹か」
 そういった時、中の三人の侍も、深雪に気がついて、入口へ眼をやった。深雪は、それに気がついて、俯向いてしまった。
「不埓《ふらち》なっ」
 その時、出し抜けに大声がして
「邸へ戻って、御差図を待て」
 早口の、怒り声が聞えると、横目付四ツ本が、二三人の侍の中から姿を現した。そして、深雪を見た。そして、主人の出て来たのに周章てて立上った仲間と、二人の侍をつれて、深雪の叩頭に、軽く御辞儀と一瞥《いちべつ》を返しながら、群集の二つに開く中を出て行った。深雪は、暗い内部に動く人影があったので
(兄?)
 と、思った時、小太郎が、蒼白めた頭に、怒った眼をして、暗い中から出て来た。深雪の顔と合った。二人はすぐお互に眼を外らした。

「探しにか」
「はい」
 群集は、二人を見て、何か囁き合った。
「何うなされました」
「傘を貸せ、話は戻ってからだ」
 小太郎がどんどん番所を出て行くので、深雪は、土間の隅に俯向いている庄吉に
「いろいろと、お世話でございました」
「何ね」
 庄吉が、そう云って顔を上げた途端、妹の今の言葉に
(誰に、礼を云っているのかしら)
 と、思って振返った小太郎の眼と、庄吉の眼とが、ぴったり合った。小太郎が鋭く
「深雪っ」
「只今」
 深雪は、もう一度、庄吉に頭を下げて、群集の眼の中を出て行った。
「何んだ、庄公か」
 小太郎の出て来たうしろから、証人に呼ばれて来ていた職人が出て来た。
「別嬪だなあ――庄、上々に行ったよ。お邸からすぐ、横目付が来てね。邸から、明日とも云わず、叩き出すって――俺《おいら》あ、胸がすっとしたよ」
「そうかい」
「こいつ、何をぼんやりと――庄公っ、あの女に惚れやがったな」
 職人が、太い声をした。辻番人が
「いい女だなあ。屋敷者には、一寸、稀らしい玉だぜ」
「女郎に売ったら儲かるだろうな」
 庄吉は、黙って、往来へ出た。群集は、どんどん散り始めて、番所近くの人々が、四五人しかいなかった。
(あの兄貴の野郎にゃあ、怨みがあるが、妹にゃあ、何んの怨みもねえのに、あの小太と一緒に、浪人になって――邸を追い出されて――待て待て、俺は一人だから、片手折られても、何うにでもなるが、あいつのところは大勢――大勢でなくったって、あの妹一人だったって、怨みもねえのに、こ
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