らないことさえあった。それに裁許掛見習などの役は、余分の実入《みいり》とて無かったから、御暇が出れば、すぐにも困る家であった。
「七瀬――皆も参れ」
 次の間で、行末の不安に、おののいていた七瀬らが入って来た。
「聞いたであろう」
「はい」
「何れにせよ、別れる運命になった――国許へ戻ってもらいたい。それに就いて、一つ頼みがあるが、益満の申す如く、元兇|調所《ずしょ》を、一つ、さぐって欲しい」
「はい」
「わしは、名越殿と談合の上、お国許の方々と策応して、小太郎と共に手段をめぐらそうが、或いは、これが一生の別れになるかもしれぬ」
 二人の娘は、俯向いた。深雪は、もう、袖を眼へ当てていた。
「すぐ召使の者に手当して取らせい。目ぼしいものは売却して――小太郎、益満を呼んで参れ。ひっそりしているから、留守かも知れぬが、何処にいるか、心当りを存じているか?」
「存じております」
「深雪、何を泣く。女は女として、又一分の勤めがある。泣くようでは、父の子でないぞっ。泣くなっ」
 廊下へ集まっているらしい三人の召使の一人が、すすり泣いた。七瀬は、ふらふらしそうな頭で――だが、元気よく
「綱手、門前の道具屋へ、深雪は、古着屋を呼んで来てたも」
「私がついでに」
 と、小太郎が立上った。八郎太は、もう手箱から、不用の文書を破り棄てにかかっていた。

「お父様、妾にも、何か御用を仰せつけ下さいませ」
 涙曇りの声だ。八郎太は、手箱から出てくる文書の始末をつづけながら、黙っていた。
「何んなことでも致します。何んな、辛い辛抱でも致します」
 八郎太は、手をついている深雪の眼の涙を、いじらしそうに見た。深雪は、湧いてくる涙を、睫毛で押えつつ
「お父様、決して、御手纏いにはなりませぬから――」
「お前は、江戸へ残って――」
「ええ? 江戸へ残って――お父様、残って? 一人で残るのでございましょうか」
「話をよく聞かずに、何んじゃ。そんなことで手助けができるか」
「いいえ、お父様、妾一人残りましても、御申し付けのことは仕遂げます」
 八郎太は、うつむいている綱手に
「綱手、お前は、母について国許へ参るがよい」
「はい」
「生れて三歳までしか居らなんだから、国と申しても、何んの憶えもあるまいが――よいところじゃ。お前の生れた家も、母の家も、親類達も、皆そこにある」
「幾日ぐらいかかりましょうか」
「道程《みちのり》は、ざっと三百八十里、女の足で二月はかかろうか」
「まあ、三百八十里?」
 綱手も、深雪も、安達ヶ原の鬼の話や、胡麻の蠅のことや、悪い雲助のことや、果のない野原、知らぬ道の夜、険しい山などを、いろいろと、心細く、悲しく、想像した。
「母と二人で行けるか?」
「ええ、参ります。そして、妹は?」
「深雪には、深雪の役がある」
「何んな役? お父様」
 七瀬が、襖を開けた。召使が、膝を揃えて平伏した。
「お暇乞に」
 七瀬が、そういって、中へ入ると、小者の又蔵が
「いいえ、お暇乞でござりませぬ。ただ今、この御手当を頂きましたが、これは、御返し申します」
 又蔵は、金包の紙を、敷居の中へ押しやった。
「六年と申せば、短いようで長い――お嬢様が、十二三から、こんなに御成長遊ばしますまで、ええ、その長い間、何うか、よいところへ御縁のきまるを見てと、それを楽しみに――何も、今更になって、手当だの、暇だのと、それは一期、半期の奉公人のことで、手前は、憚りながら、坊ちゃんに、剣術を教えて頂きますのも、こんな時に、又蔵、こうこうこういう訳だが、どう思う、と、旦那様、一言ぐらい仰しゃって下さっても――」
 又蔵の涙声が、だんだん顫えて来た。
「い、いきなり、手当をやるから、出て行けって――」
「又蔵、よくわかった。忝ない。然し、明日から雇人を置く身分ではなくなるのじゃ」
「さあ、旦那、そこで――手前は、や、雇人じゃござんせん。何故、主従は三世の、家来にして下さいません。死ねと仰しゃれば死にます。出て行けと仰しゃれば――そいつだけは、御勘弁を――」

「うめえことを、云やがったのう。古人って奴は」
 富士春の坐っている長火鉢の、前と、横にいる若衆の中の一人が、小藤次の家にいる源公の顔を見て、大声を出した。
「何が?――途方もねえ吠え方をして、何を感ずりゃあがった」
「そら、千字文の初めに、天地玄黄、とあらあな。源公」
「何を云やあがる、そりゃ、論語の初めだあな」
「糞くらえ、論語の初まりは山高きが故に尊からずだあ」
「無学文盲は困るて。それは、大学、喜句《きく》の章だ」
「喜句の章じゃあねえ、団子の性だ。団子の性なら転げて来い、師匠の性なら、金持って来い」
「おやっ、もう一度唄って御覧な」
 富士春は、口で笑って、眼で睨んだ。一人が
「東西東西、それで、天地玄黄が、何う
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