へ転がってきた。
 名越と、仙波とは、ただの調子でない斉興の声に、心臓を突かれると同時に、人形を投げつけたらしい気配に、ちらっと眼を挙げたが、近侍の人々しか見えなかった。
(何うして、御立腹になったのかしら?)
 と、二人の心が、心もち、蒼白めて、冷たくなった時
「不届者がっ」
 と、斉興の、少し、顫えて、しゃがれた大きい声がした。二人は
「はっ」
 と、いって、見えぬところであったが、平伏した。
 斉興は、首を延して、二人を見ようとしながら、両手で、脇息を押えて、ぶるぶる両手を顫わしながら
「これっ、不届者――聞け」
 と、叫んだ。

 斉興の、思いがけぬ烈しい罵声に、二人は、手をついてしまった。
「不届者っ――こ、これへ参れっ」
 甲高い、怒り声であった。
「おのれら、不所存な。何んと思いおる。たわけがっ」
 二人は、平伏しているより外に、仕方がなかった。四ツ本も、二人と同じように手をついていた。
 お由羅は、薄明りに金具の光る煙草盆を、膝のところへ引寄せて、銀色の長煙管で、煙草を喫っていた。そして、白々とした部屋の空気を、少しも感じないように、侍女に、何かいっては、侍女と一緒に、朗らかに笑った。
「実学党崩れ、又、秩父崩れ――家中に党を立てて、相争うことは、それ以来、きつい法度にしてある筈じゃ。それを、存じておりながら――こともあろうに、由羅がどうの、調伏がどうのと――おのれら、身を、何んと見ておるのじゃ。当家は身のものじゃぞ。これっ――身が当主じゃぞ。身を調伏したり、身に陰謀を企てたりする奴等がおったなら――そりゃ、床下へなりと、天井へなりと、奥へなりと忍び込め――それは、忠義な所業じゃ。又倅の側役として、斉彬に事があれば、それも許してやろうが、高が、斉彬の倅一人の死に、陰謀が何うの、こうの――申すにことを欠いて、由羅が張本人などと――由羅は、身の部屋同然の女でないか。それを、謀反《むほん》人扱いにして、それで、おのれら、功名顔をする気か――公儀に聞えて、当家の恥辱にならんと思うのか――たわけっ、思慮なし。石ころ同然の手遊人形一つを証拠証拠と、左様のものを楯にとって、家中に紛擾《ふんじょう》を起して、それが、心得ある家来の所作か――」
 斉興は、一気に、ここまで喋って、疲れたらしく、水飲みを指さした。そして、呟き入った。
「恐れながら――」
 沈黙している一座の中へ、八郎太が、低いが、強い声を、響かせた。斉興は、湯を一口飲んで、首を延して、名越の背後をのぞき込みながら
「おのれは、何んじゃ」
 小藤次が
「裁許掛見習、仙波八郎太と申します」
「これっ――裁許掛を勤める程のものなれば、濫りに、奥へ忍び込んだ罪ぐらいは、存じておろう――」
「恐れながら――」
「黙れっ――直々の差出口、誰が、許したっ。不届者。軽輩の分際として、老職へ、強談するのか、身に――身に――」
 斉興が、興奮した手から、湯を溢《こぼ》そうとするのを、由羅が、手を添えて
「将曹――二人を退げてたもれ」
「退れっ」
 斉興が、八郎太の方を睨んだ。
「御身体に障ります」
 お由羅が、人々を叱るように叫んだ。仙波が
「八郎太」
 と、口早にいって、目を配せた。八郎太が、平伏した。そして、一膝退ると、斉興が
「閉門しておれ、閉門」
 と、叫んだ。小藤次が俯向いて、にゃっと笑った。

  父子双禍

 目付、洞川右膳と、添役、宝沢茂衛門とは、沈んだ顔付をして、八郎太の手もとを見ていた。八郎太は、赤い顔をして、墨を磨りながら、御仕舞に連署している三人の名――島津将曹、伊集院|平《たいら》、仲吉利へ、押えきれない憎しみと、怒りとを感じていた。手先の顫うのを二人に見せまいと、気を静めながら、左の隅へ、自分の名を書いた。その奉書の右の方には
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其方不埓儀|有之《これあり》、食禄を召上げ、暇被下《いとまくださる》者也、月日、承之《これをうけたまわる》」
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 それから、その三人の名が、書いてあるのであった。八郎太が、受書をして、二人の前へ差出すと、一見してから、洞川が
「それで――」
 と、一寸、いい淀んで
「三日の内に、退転されるよう」
「三日?」
「左様」
 八郎太の顔は、怒りで、だんだん赤くなってきた。
「承知仕りました。御苦労に存じます」
 洞川は、宝沢に合図して、立上った。次の間で、小太郎が、玄関の供へ
「お立ち」
 と、叫んだ。八郎太は、坐ったまま、見送りに立とうともしなかった。
 小太郎の手柄も、八郎太の訴えたことも、総て逆転して来た。多少の咎めは覚悟していたが、追放とまでは考えなかったし、三日限りで、出て行けというのも、情け容赦のないきびしさであった。
 重豪公の放漫から、七八年前まで、藩財窮乏のために、知行の渡
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