いからとて、不義は、不義じゃ、従うべきではない。牧、わしなら、皺腹を掻っ裁いて、上命に逆った罪をお詫びして死ぬぞ。これがよし、斉興公よりの御上意にしても、主君をしてその孫を失うの不義をなさしめて、黙視するとは、その罪、悪逆の極じゃ。諫めて容れられずんば死す。兵道に尚《とうと》ぶところ、これ一つ、兵道家の心得としても、これ一つ。わしは、常々申したのう。心正しきものの行う兵道の修法は、百万の勇士にも優り、心|邪《よこしま》なる者の修法は、百万の悪鬼にも等しいと――牧、憶えておろうな。何うじゃ」
 玄白斎は、静かに、だが、整然として、鋭く、牧に迫った。
 牧は、俯向いたままで、微かに、肩で呼吸をしていた。何ういう苦行をしたのか? 玄白斎が、想像していた牧とは、まるで違った疲労した牧であった。一人の命を縮めると、己の命を三年縮めるというが、この疲労、このやつれは、三年や、五年でなく、既に、死病にかかっている人の姿であった。玄白斎は、高木と、和田の前で、自分の気の弱さを見せたくなかったが、もし二人がいなかったなら、この愛弟子の肩を抱き、手を執って
「牧、何うした?」
 と、慰めてやりたかった。自分の立場として、兵道守護の務として、牧を、こうして咎めたが、心の中では
(牧が、うまく返辞をしてくれたなら)
 と、祈っていた。和田が
「牧殿――御返答は?」
 牧は、眼を閉じて、手を膝へついて俯向いたまま、未だ答えなかった。山内が、咳をして
「手間取るのう」
 と、土間で、無遠慮なことをいった。
「お答え申し上げます」
 牧は、静かに顔を擡《もた》げて、澄んだ眼で、玄白斎を見た。
「ふむ――」
 玄白斎が頷くと、牧は、身体を真直ぐに立てた。牧のいつもの、鋭さが、眼にも、身体にも溢れて来た。
「君を諫めて自殺する道、御教訓として忘却してはおりませぬ。然しながら、某自ら命を断つに於ては――この兵道の秘法は、今日限り絶えまする。又兵道は、只今、危地に陥っております。人間業に非ざる修行を重ねること二十年。それで、秘法を会得しても、一代に一度、修法をするか、せぬかでござりましょう。二百五十年前、豊公攻め入りの節、火焔の破頂にて和と判じて大功を立てて以来《このかた》、代々の兵道方、先師達、一人として、その偉効を顕現したことはござりませぬ。徒《いたず》らに、秘呪と称せられるのみにて、ここに十六代、
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