あろうが、今から、この疲れた脚で、行けようとも思えぬ。この上は、牧が、国外に出てまで、修法するか、それとも、御城下へ戻るか――間根での修法が、明日の四つ刻にすむとすれば、久七峠へ出て、牧が通るか、通らぬかを待とう。もし、通らぬ時は、城下へ戻ったもの、通るとしたなら、話によっては、そのままには差し置かぬ」
 と、いった。和田仁十郎、高木市助の二人は、老師の、たどたどしい脚を、左右から支えながら、夜を徹して、栗野から、大口へ、大口から、淋しい街道を久七峠へ登って来たのであった。
 久七峠には、島津の小さい番所が置いてあった。その番所から、少し降ったところに、この茶店があった。
「牧殿の返答によっては――」
 仁十郎は、こういって
(斬っても、よろしいか)
 と、つづけたいのを止めた。玄白斎は、牧を追跡し、口でも、よくはいっていないが、秘蔵弟子として、師よりも優れた兵道家として、子の無い老人にとっては、子よりも可愛い仲太郎であった。仁十郎には、よくそれが判っていた。
「そう――返答によっては――捨て置けんかも知れぬ」
 玄白斎は、仮令《たとい》、斉興の命なりとも、臣として、幼君を呪う罪は、兵道家として許しておけぬと、頑強に考えてはいたが、そのために自分の手で、牧を殺す、という気にはなれなかった。牧がうまく自分を説き伏せ、家中の人々を感心させてくれたら――玄白斎は、自分の老いたことを感じたり、心弱さを感じたり、兵道家の立場の辛さを感じたりしながら
「疲れた――疲れたのう」
 と、眼を閉じたまま、額を、握り拳で叩いた。

「爺っ」
 一人の侍が、軒下から、大声に呼んだ。
「今、十二三人、見えるから、支度せえ」
「はいっ」
 爺が、周章てて、走り出ると、侍はすぐ、番所の方へ登って行った。
「先生――牧の一行でござりましょうか」
 玄白斎は、俯向いて、眼を閉じていた。
「うむ」
「十二三人とは、人数が少し、多すぎまするが――」
「多くない」
「はい」
 市助が立って、暗い台所で、何か水に涵《ひた》していた。そして、持って来た。
「和田」
 と、云った。水に漬けた真綿であった。仁十郎は、手拭に包んで、いつでも鉢巻にできるよう、折り畳んだ。二人は、乱闘の準備をした。
「さあ、出来ました。お待ちどおさまで」
 婆が、こういって、大儀そうに、上り口から、土鍋を運んで来た時、しとしと土を踏
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