なんぞ――うまいことをいやあがる)
 と、思った。途端に
「ようよう」
 と、南玉が、叫んで、手をたたいた。
「何っ――もう一度、吠えてみろ」
 小藤次が、睨んだので、南玉は
「いえ――」
 周章てて、益満の方へ、走り寄った。益満は、もう群集の外へ出て、群集に、見送られながら、小太郎と、足早に歩きかけていた。
「あら、何奴《なにやつ》で」
 と、職人が、小藤次に聞いた。
「あれが――益満って野郎だ。芋侍の中でも、名代のあばれ者で、二十人力って――」
「若い方も、強そうじゃ、ござんせんか」
「あいつか」
 二人が、湯屋の前を通り過ぎようとすると、暖簾《のれん》の中から、鮮かな女が、出て来て
「おや、休さん」
「富士春か」
「寄らんせんか」
 富士春は、鬢《びん》を上げて、襟白粉だけであった。小太郎は、ちらっと見たまま、先へ歩いて行った。益満は、小太郎を追いながら
「急用があって」
 と、答えた。
「晩方に、是非――」
 と、富士春が、低く叫んで、流し目に益満を見た。

 小太郎は、自分の歩いていることも、益満のいることも、南玉が、ついて来ることも、忘れていた。
(父は、きっと、家中への手前として、自分の面目として、寛之助様が亡くなったとしたなら、母を離別するだろう。医者の手落であっても、御寿命であっても、又、噂の如く調伏であったにしても――そして、離別されて、母は、一体、どうするだろう?――母に何んの罪もないのに、ただ、家中へ自分の申し訳を立てるだけで、妻と別れ、子と引放し、一家中を悲嘆の中へ突き落して――それが、武士の道だろうか)
 南玉は、二人の背後から、流行唄の
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君は、高根の白雲か
浮気心の、ちりぢりに
流れ行く手は、北南
昨日は東、今日は西
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 と、唄っていた。益満が
「小太」
 小太郎が、振向くと、益満は、微笑して
「又とない機が来た」
 小太郎は、父母のことで、いっぱいだった。
「関ヶ原以来八十石が、未だ八十石だ。それもよい。我慢のならぬのは、家柄、門閥――薄のろであろうと、頓馬《とんま》であろうと、家柄がよく、門閥でさえあれば、吾々微禄者はその前で、土下座、頓首せにゃあならぬ。郷士の、紙漉《かみすき》武士の、土百姓のと、卑《さげす》まれておるが、器量の点でなら、家中、誰が吾々若者に歯が立つ。わしは、必ずしも
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