瞬間、も一度、鋏を突き出して、指を動かすと、紐は、指先へ微かに感じるくらいの、もろさで、切れて、印籠は、嬉しそうに、庄吉の掌の中へ落ち込んだ。庄吉は、満足した。
だが、それは、ほんの瞬間だけのことであった。庄吉の身体が侍から、一尺と離れぬ内に、侍が振向いた、険しい眼が、庄吉の眼と正面から衝突した。侍が、立止まった。
庄吉は、それでも、腕に自信があった。掏ったとわかって、振返ったのではなく、自分が余り、近づきすぎたのを怪しんで、振返ったのだと思った。
だが、それも、ほんの瞬間だけにすぎなかった。庄吉の、引こうとした手が、侍の手で、しっかり握りしめられてしまった。
(ちえっ)
と、心の中で、舌打ちをして、生《なま》若い侍から侮辱されたように感じて、憤りが湧いてきた。
(小僧のくせに、味な真似を――)
と、思った。そして、手を握られたまま、小太郎の眼と、じっと、睨み合っていた。振切って、横っ面を、一つなぐって、逃げてやろう、と思った。だが、右手を、十分に取られていて、勝手が悪かったので
「済みません」
と、油断させておいて――とも、思ったが、こんな小僧に、詫《あやま》るのも癪であった。
「何うするんでえ」
庄吉は、睨みつけた。小太郎は、微笑した。そして、左手の書物を、静かに、懐へ入れて
「さあ、何う致そうかの」
と、答えた。
庄吉も、微笑した。
「江戸は物騒だから、気をつけな」
「不埓《ふらち》者っ」
小太郎の顔に、さっと、血が動いた。
「何っ?」
力任せに引く手首を、ぐっと、内へ折り曲げると共に、庄吉の手首から、頭の中まで、血の管、筋骨を、一時に引きちぎるような痛みが、走った。
(手首が折れる)
と、感じ
(商売が、できなくなる)
と、頭へ閃いた刹那、庄吉は、若僧の小太郎に、恐ろしさを覚え、怯《お》じけ心を感じたが、その瞬間――ぽんと、鈍い、低い音がして、庄吉の顔が、灰土色に変じた。眉が、脣が、歪んだ。
往来の人が、立止まって、二人を眺めていた。庄吉は、自分の住居に近いだけに、自分の仕事を人に見られたくなかったし、弱味を示したくもなかった。
しびれるように痛む手に、左手を添えて、懐へ、素早く入れた。そして、一足退って
「折ったなっ」
「江戸は物騒だ。気をつけい」
小太郎が、嘲笑して
「印籠は、くれてやる」
庄吉は、口惜しさに逆上した。
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