ってことになるかの」
小藤次が
「庄、どうだ、景気は?」
「へへっ、頭は木櫛《きぐし》ばかり、懐中は、びた銭、御倹約令で、掏摸《すり》は、上ったりでさあ」
「押込なんぞしたら?」
「押込?――押込は、若旦那、泥棒でさあ。品の悪い。掏摸は職人だけど――」
「はははは、そうか――庄吉、いい腕だそうなが、武士のものを掏ったことがあるか」
「御武家衆にゃあ、金目のものが少くってねえ」
「何うだ、一両、はずむが、鮮やかなところを見せてくれんか?」
小藤次が、こういって、往来を見た時、一人の若侍が、本を読みながら、通りすぎようとしていた。
「あいつの印籠は?」
「朝飯前、一両ただ貰いですかな」
庄吉は、微笑して腰を上げた。
出て行こうとする庄吉へ、一人が
「へまやると、これだぞ」
と、首頸《うなじ》を叩いた。庄吉が、振向いて、自分の腕を叩いた。
若い侍は、仙波八郎太の倅、小太郎で、読んでいる書物は、斉彬から借りた、小関三英訳の「那波烈翁《ナポレオン》伝」であった。
父の八郎太が、裁許掛見習として、斉彬の近くへ出るのと、斉彬の若者好きとからで、小太郎は無役の、御目見得以下ではあったが、時々、斉彬に、拝謁することができた。
斉彬は、時々、そうした若者を集めては、天下の形勢、万国の事情を説いて、新知識の本を貸し与えた。「那波烈翁伝」は、こうした一冊であった。
近頃、流行《はや》りかけてきた長い目の刀を差して、木綿の紺袴に、絣を着た小太郎を見て、庄吉は
(掏り栄えのしない)
と、思った。庄吉の狙った印籠は、小太郎の腰に、軽く揺れていたが、黒塗で、蒔絵《まきえ》一つさえない安物であった。
(仲間の奴が見たなら、笑うだろう)
と、そうした安物を掏る自分へ、嘲ってみた。
(然し、一両になりゃあ――)
庄吉の冴えた腕は、掏ろうとする品物を生物にした。庄吉が、腕を延すと、その品物の方から、庄吉の掌の中へ、飛び込んで来るのが、常であった。そして、今の仕事は鋭利な鋏《はさみ》を、右手の掌の中へ隠して、紐を指先で切ると同時に、掌へ、印籠を落す、という、掏摸の第一課の仕事であった。
庄吉は、ぐんぐん近づいて行って、鋏を指の間へ入れた。三尺、二尺――近づいて、鋏を動かすと――ほんの紙一重の差であろう、鋏は、空を挟んで――庄吉は
(侮っちゃあいけねえ)
と、感じた。そして、次の
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