ふるえているし、眼は白眼が多くなって、次第に細く閉じられてきた。
「まだ脈はあるが――」
 斉彬は、医者の方を見て
「何か手当の法が無いものか」
 と、口早に聞いた。
「助かるものなら――」
 と、低く、呟いて、七瀬の眼を見た斉彬の睫毛には、涙が溢れるように湧き上って来ていた。

  手首に怨む

「噂をすれば、影とやら――」
 一人が、こういって、隣りの男の耳を引っ張った。
「何をしやがる」
「通るぜ、師匠が」
 お由羅の生家、江戸の三田、四国町、大工藤左衛門の家の表の仕事場であった。広い板畳の上で、五六人の若い男が、無駄話をしていた。
「師匠」
 常磐津富士春は、湯道具を抱えて、通りながら、声と一緒に、笑顔を向けて
「おやっ――」
 立止まって
「お帰んなさいまし」
 と、小藤次に挨拶をした。小藤次とはお由羅の兄で、妹が、斉興の妾となって、久光を生んでから、さらに取立てられて、岡田小藤次利武と、名乗っているのであった。
 小藤次は、袴も、脇差も、奥へ捨てたまま、昔のように、大あぐらで
「入《へえ》ったら――」
「おめかしをして」
 富士春は、媚をなげて、素足の匂を残して行った。
「いい女だのう。第一に、鼻筋が蛙みたいに背中から通ってらあ」
「兄貴を、じっと見た眼はどうだ、おめかしをして――」
「おうおう、誰の仮声《こわいろ》だ」
「師匠のよう」
「笑わせやがらあ、そんなのは、糞色《ばばいろ》といってな――」
「鳴く声、鵺《ぬえ》に似たりけりって奴だ」
「俺《おいら》、あの口元が好きだ。きりりと締まってよ」
「その代り、裾の方が開けっ放しだ。しかもよ、御倹約令の出るまでは、お前、内股まで白粉を塗ってさ」
「御倹約令といやあ、今に、清元常磐津習うべからずってことになるてえぜ」
「そうなりゃ、しめたものだぜ。師匠上ったりで、いよいよ裾をひろげらあ」
 と、いった時、泥溝《どぶ》板に音がして、一人の若い衆が、下駄を飛ばした、片足をあげて、ちんちんもがもがしながら、大きい声で
「とっ、とっと――猫、転んで、にゃんと鳴く。師匠が転べば、金になる――」
 板の間で、それを見た一人が
「庄公、来やあがった」
 と、呟いた。庄吉は、入ろうとして、小藤次に気がつくと
「お帰んなさいまし」
 と、丁寧に、上り口へ手をついた。
「上れ」
「今、酒買うところだ」
「丁度、師匠の帰りに、酌
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