まで、お由羅の方へ、向き直って手をついた。
「早う、部屋へ引取って、休みや」
 深雪は、やさしい、お由羅の言葉を聞くと共に、胸の中の厚いものが砕けて、その下から涙が湧き上ってきた。黙って、首垂れてしまった。
「許してやんなされ」
 お由羅は、梅野にこういった。
「それが――」
「新参者に、不調法は、ままあることじゃ」
 お由羅は、こう云いすてて歩み出しながら
「深雪、よく、上の人の申しつけを聞いて、叱られぬようにな」
 深雪は、袖へ顔を当てて、お由羅を刺そうとして入込んだ気持などを、少しも感ぜずに、そのやさしさに、泣いていた。梅野が
「今夜は赦しますが、余のことではないから、よく憶えていや」
 と、云った。

 深雪が、部屋へ戻って来ると、灯は消していたが、未だ、眠らない、大勢の朋輩達は、低い声で、いつものように、小姓の噂をしたり、役者買いの話をしたりして、忍び笑いをしていた。
「本当に、よく似ていますぞえ」
「誰に?」
「成駒屋に――」
「おお、嬉しい――あっ、痛い――同じ、抓《つね》るなら、裏梅の形に、抓って下さんせいな、あれっ――」
 深雪は、手さぐりに、自分の床へ入ろうとした。
「誰?――今夜は、このまま、眠れぬぞえ。どうでも、梅園さん」
 一人の肥った侍女は、すぐ隣りのおとなしい梅園の手を引っ張った。一人が
「それよりも、あの新参者は?」
「そうそう、あの器量好しを、いじめましょうわいな」
 深雪は、そういう会話に、耳を背向《そむ》けて、明日の自分、あの老女梅野の言葉、お由羅のやさしさ、それを刺せという命令、父、兄、母――そうしたことを、毀れた鏡に写してみているように、途切れ途切れに、ちらちら考えていた。そのうちに自分の名が出たので、それに、注意すると
「深雪さん」
 と、間近くで、暗い中で、誰かが呼んでいた。そして、他の人々は、深雪が、真赤になって、憤りたくなるような、自分に関した猥らな話をして、きゃっきゃっ笑っていた。
 昼間の、つつましく、美しい女姿が、こうした闇に見えなくなると、その女達を包んでいた、押えていた醜悪なものだけが、露骨すぎて現れてきた。深雪は、寝間着の裾を結んで、蒲団を押えて、もし、手でも出したなら、容赦すまいと、呼吸をこらしていた。
 想像していた、礼儀の正しい、奥生活の昼は、想像以上に――苛酷なくらいに、厳粛であったが、侍女部屋の
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