夜は、又、深雪の想像以上に乱れていた――と、いうよりも、深雪には考えられない愛欲の世界であった。
「深雪さん」
と、近々と、声がした時、廊下の外で
「未だやすまぬか」
老女の声であった。女達は、一斉に、ちぢんで、押し黙った。
「夜中に大声を立てて。お上は、お眠りじゃぞえ。騒々しい」
うち、一人の女が、深雪の近くで
「悪魔退散、婆退散」
と、囁いて、近くの二三人を笑わせた。暫くすると、ことこと、草履の音が去って、夜番が、庭を廻って来た。
「明日の勤めが辛い。皆さん、お先きに」
と、誰かがいった。そして、そのまま静かになった。暫くすると、歯ぎしりが聞えたり、小さい鼾が聞えたりしかけた。
深雪は、眠れなかった。何んだか、胸苦しく、頭の心が、少し痛むようで、額を押えると熱があった。そして、隣りの女の寝返りや、夜鳴き鶏の声が、はっきりと聞えているかと思うと、何かに、はっとして眼を開けた。
(今、少し眠ったのかしら)
と、思った。そして、又、歯ぎしりを暫く聞いていたが、又、うとうととした。指の痛みだけが、いつまでも、眠りの中に残っていた。
深雪は、灰色の中に、ただ一人で立っていた。
ふっと、気がつくと、その前の方に、一人の老武士が歩いていた。
(お父さまだ)
と、思った。そして、呼ぼうとしたが、どうしても、声が出なかった。八郎太は、幻のように、影のように、それから、すぐ、遠ざかってしまいそうに歩いているので、深雪は悲しくなって、駈け出そうとした。だが、どうしてか、駈けても、駈けても、父との距離が同じで――そうしている内にも、父が、灰色の中へ消えてしまいそうな気がするので
(飛びかかったら)
と、決心すると――出し抜けに、父の顔が、前に大きく、苦い顔をしていた。
「まあ、お父さま」
と、いうと、それは、江戸の邸の中であった。深雪は
(お母様も、きっといらっしゃる。嬉しい)
と、思って襖の方を見ると――急に、胸が苦しくなったので、父の顔へ救いを求めるように振向くと、八郎太の眉の上に、血が滴っていて、深雪の心臓も、身体も、頭も、凍えさした。
「誰か、来て下さい。お父様が、御疵《おけが》なさいました」
と、叫んだが、誰も出て来なかった。深雪は、腹を立てて、だが、自分の袖をちぎって、疵へ手当しようとしたが、いつの間にか、袖がなくなってしまって、寝間着一枚であ
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