下げちゃあ歩けねえや。こん畜生め)
 力を入れて引くと、髪の根が痛かった。山内は、木戸から、小藤次を突き出して
「二度と入ると、棄ておかんぞ」
 と、睨みつけた。

「深雪かえ」
 深雪は、闇の中で、絶壁から、墜落して行くように感じた。
「何をしておじゃるえ」
 蛇が、身体中を、締めつけて来るような声に感じた。
「はい」
 深雪は、廊下へ、手をついてしまった。
「ついて来や」
「はい」
 梅野は、板戸の中へ入ってしまった。深雪は
(何う云って、云い抜けたらいいのか?――云いぬけられるか?――もし、云い抜けられなかったら、何うなるのか?――お由羅の調伏を見届けもせずに、小藤次風情と、不義の汚名をきて、罪にされたら――)
 と、思うと
(小藤次のような人間でも、人を欺した罰かしら)
 と、思えた。
 六畳の部屋は、行燈に、ほのかに照し出されていた。
(今時分まで、何うして、この老女だけが起きているのか? 祈祷の係ともちがうのに)
 梅野は、上座へ坐って、静かに
「何しに、今時、庭へおじゃった?」
 深雪が、顔を上げると、拝領物を飾る棚、重豪公の手らしい、横文字を書いた色紙、金紋の手箪笥、琴などが、綺麗に陳《なら》んでいた。そして、その前で、梅野は、紙張りの手焙《てあぶり》へ、手をかざしていた。
「はい、不調法仕りました。以後心得まするから、お見のがし下さりませ」
 深雪は、手をついた。
「さあ、訳を話せば、その訳によって、見逃さんでもない――訳は?」
 深雪は、何ういっていいか、わからなかった。
「返事は?」
「はい」
「涼みに出る時節でもないし、厠《はばかり》を取りちがえるそなたでもないし、まさか、男と忍び合うような大外《だいそ》れた小娘でもあるまいし、のう――深雪」
 深雪は、真赤になって、俯向いた。
(赤くなっては、悟られる)
 と、思ったが、少しも、心に咎めない、小藤次との間のことであるのに、顔が赤くなってしまった。
「とんとんと、叩いていたのは?」
 深雪は、身動きも出来なかった。
「合図かえ」
 深雪は首を振った。
「合図でなければ、何んじゃ」
「はい」
「慣れぬことゆえ、初めのうちは、誰しもいろいろと失策はある。万事、それは、妾の胸一存に納めておくから――正直なところを申してみや。偽りを申して、後に露見するよりも――申せぬか?――飽くまで、白状せぬとあれば
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