の稽古」
近所へそんな声をかけておいて、戸を閉めてしまった。富士春は、上り口の間へ立ったまま、剥げた壁へ顔を当てて、泣いていた。
「深雪は、師匠、とっくに、御奉公に上っちまったんだよ。見当ちがいの焼餅だわな。庄公は、少し人並とちがってるんだから――堪忍《かんにん》しておやりよ。さ、泣かずに、こっちいお出でよ――よう、師匠」
南玉は、立って来て、白粉と、髪油の匂を嗅ぎながら、富士春の肩へ手をかけた。そして
「庄公、その辺に、石があるが――」
「俺、燧石はまだ打てねえよ」
「これは御無礼、これはしくじり――」
富士春が、帯の間から、燧石を出して
「ここに――」
と、手探りに南玉へ渡した。南玉が、石を打つと、庄吉は、座敷の真中に突っ立っていた。富士春の顔の白粉は汚れていた。南玉は、石を打って、火を出しながら
「一つとや、か、人の知らない苦労して」
と、節をつけて、一足一足、石を打ちながら、行燈のところへ行って
「なあ、それぞれ、人にゃあ苦労ってものがあるものだ。俺も、今日は、お由羅邸で、一苦労して来たところだ。自分だけ苦労していると思っちゃあいけねえ」
と、云いつつ、行燈に灯を入れて、小声で庄吉に
「こっちい呼んでおやりよ」
「うむ」
「やさしく一言かけてやりゃ、女なんて化物は――」
「何うせ、化物でござんすよ」
「ほい、聞えたか?――庄公、そんな堪忍ぐらい出来んで、大仕事の手伝いが出来るかい」
「そうか。判った」
庄吉は、元気よく
「お春、こっちへ入らしてもらえ」
南玉が、又立って行って
「ここで、もう一拗《ひとす》ね、拗ねるって手もあるが、そいつあ、差しの場合での。他人がいちゃ、素直にここへ来て、仲よく食べて、戻って、寝て、それから、ちくりちくりと、妬くのが奥の手だて。さあ、こっちい来たり」
富士春は、南玉に、手を取られて、奥の間へ入って来た。
「やれ――化物を二疋退治した。さあ、生のいい刺身だ。庄公は不自由だろうから、春さん、食べさしてやんな。さあ、庄公、あーんと、口を開きな。何も、恥かしがることはねえ。こういう風に――」
南玉は、大きな口を開けて、刺身を、自分の口へ投げ込んだ。
「おお、うめえうめえ、頬ぺたが、落ちらあ」
忍泣き
取締りの老女中が、奥向きの部屋部屋――内玄関、勝手、納戸、茶の間、寝室、御居間、書院、湯殿、厠《かわや》と
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