かな。岡田さん、いろいろと、いや、何うも、御世話に。御礼は、何れ後程。では、皆様、さようなら――」
 南玉は、左右へ、御叩頭をして出て行った。小藤次は苦り切っていた。

 南玉が、お由羅邸からの引出物の風呂敷包を持って、黄昏時の露路を入ると、自分の家の門口に、一人の男が、蹲《しゃが》んでいた。
「誰方《どなた》様でげす?」
「師匠」
 男が、立上った。
「庄吉か。何うしたい」
「まあ、入ってから話そう」
 南玉は、狭い、長屋の横から、勝手口へ廻って、両隣りへ挨拶した。そして、戸を開けて、庄吉を入れて、庭の雨戸を繰り開けていると
「のう、師匠。深雪さん、御奉公に上ったって云うじゃあねえか」
「うん」
「お前、あの娘を、小藤次の餌にするつもりかい?」
 南玉は、答えないで、戸を開けてしまった。
「未だ、灯を入れるにゃ早いし、こうして開けておくと、油が二文がたちがうて」
 懐中から油紙の煙草入を出して、庄吉の前へ坐った。
「近頃、富士春との噂が、ちらちら、ちらついてるぜ。気をつけねえと、弟子がへっちゃあ――こういうと何んだが、お前の手も、癒ったというものの、未だ、すっかり元にゃあ、なりきるめえし――困りゃしないか?」
「心得ちゃいるよ」
「気に障《さわ》ったら、御免よ。俺《おいら》、悪気でいうんじゃあねえから」
「師匠の気持は、よく判るよ。だが、師匠に俺の気持ゃ判らねえらしいの」
「いや、深雪さんから、それも、薄々聞いてはいる。いろいろと、骨を折ってくれたそうだが――そりゃあ、お前の気性でねえと、他人にゃあ出来ねえことだ」
「と、其処までは、判っているが――それから先きだ」
「ふむ――一番、考えてみよう。それから先き、先き、先き、先きと」
 南玉は、尤もらしく、腕組をした。
「いろはにほへとの五つ目か」
「ええ? いろはの五つ目?」
 庄吉は、指を繰って
「ほ」
「れ」
「及ばねえ色事だよ。師匠、そいつあ十分承知だ。だから、女房にもとうの、妾にしようの――いや、手を握ることさえ、俺《おいら》あ、諦めているよ。立派に、ちゃんと、駈引無しに、諦めちゃあいるよ。だがのう、俺の、この気持を判って欲しいと思うんだ。それも、俺あ、憐んでもらいたかあねえ。惚れた男を憐むって裏にゃあ、師匠、軽蔑がいゃあがるからのう。俺、男としてさ、軽蔑されたかあねえや。ただ、判って欲しいのは、男が惚れた
前へ 次へ
全520ページ中170ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング