。右手の袖が、斬落されて無くなり、手も利かぬらしく、刀は持ってはいるが、だらりと下ったままであった。
 振向いた人々は、背筋から冷たくなった。八郎太の血を滲ませた眼、瞳孔は空虚になって、ただ、小太郎を凝視しているだけであった。脣からは、血に染《そ》んだ歯が、がくがくふるえて現れていた。ぼろぼろに切られた袴の中で、脚が、少しずつ、動いて、少しずつ近づいて来ていた。血で、肌へこびりついた袴は、風ぐらいに動かなかった。それは、明らかに、幽霊であった。子を思う最後の一心が、死んだ身体へ乗りうつったとしか思えなかった。やさしい言葉一つさえ懸けないで育ててきた小太郎に対する、死よりも強い愛の力であった。その愛の力が、死んだ肉体を、蘇《よみがえ》らせたのだった。
 小太郎は、石に凭せていた身体を立てた。頬に、眼に、さっと光が動いた。
「父上っ」
 心の中で、絶叫するか、せぬかに、山内の刀――踏み込んで来た脚、上った拳、山内の引いていた呼吸が
「それっ」
 と、いう懸声にかわって、毒気を吐き出す如く、力と共に噴き出した途端、小太郎は、刀を右手に提げたまま、さっと、左手へ避けた。閃いた刀は、空を斬った。かちっと、刀尖が石に当った音がした。
「小太、逃げい」
 八郎太が、よろよろ近づくのに、浪人達は、気圧《けお》されたように、恐怖の眼をして、眺めていた。牧が、じっと八郎太を眺めていた。
 山内は、一討ちと思って打ち込んだのを、外されて、石に当って、刀尖が折れると共に、赤くなって激怒しながら、二度目の猛撃をと、さっと振上げた瞬間――小太郎は、鹿の如く、浪人の中へ飛び込んでいた。八郎太の凄惨さに、恐怖を感じて、呆然としていた一人の浪人に、一撃をくれて、人々の囲みを脱出していた。
「たわけっ」
 と、山内が、浪人に怒った。そして、振上げた刀を下ろして、小太郎の後方から走り出した。多勢の浪人共が、その後を追った。
 二人の浪人は、刀を構えて、八郎太の方へ静かに近づいた。八郎太は、もう、眼が見えなくなって来たらしく、眉を顰《ひそ》めて、口を開きながら、眼をしばたたいて、小太郎の行方を捜すように、人々の走って行く方へ、うつろな眼を動かしていた。足は、もう動かなかった。
「父上っ――御免」
 小太郎は、走りながら絶叫した。だが、八郎太には聞えぬらしく、微笑もしなかった。二人の浪人が、八郎太の前へ立っ
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