思ったが、斬られたという記憶はなかった。撲られたという微かな覚えだけがあった。汗が、血が、眼の中へ入るらしく、眼が、痛んだが、もう、眼で対手を見る力もなかった。
「小童《こわっぱ》――小童がっ」
 と、叫びながら、人々を相手に跳躍している小太郎を、追って、山内は、歯噛みをしていた。浪人の二人まで即死して、四人が深手を負った。山内が、激昂しても、小太郎の腕を恐れ、金で雇われているだけの浪人は、小太郎の隙へさえ斬込まなかった。小太郎が、刀を振ると避けた。ただ遠巻きにして、小太郎の疲労を待っていた。
 牧は、縄張りのところへ出て、小太郎をじっと眺めていた。そして、斎木に
「何んと申す若者かの、あれは?」
 と、聞いた。
「仙波某とか――」
「おおっ、仙波八郎太か――硬直の武士じゃ。あれは、それの倅か――見事な」
 牧は、静かに、小太郎の方へ、歩きかけた。貴島が
「何ちらへ」
 と、いったが、黙って、草を踏んで行った。斎木と、眼を合して、貴島らの二人は、その後方へつづいた。
 小太郎は、伝教大師の石室を、背にして、血塗れになっていた。半顔は、人の血と、己の血で染まっていたし、着物は、切り裂かれて、芭蕉の葉のようであった。瞳は、もう力なく、動かなくなって、すぐにも気を失いそうだった。だが、一人でも、近づくと、凄い光を放って睨みつけた。
 突き出している刀尖が、時々下った。腕が、もう、刀を支えておれぬらしかった。山内が
「さ、引導、渡してくれる――南無阿弥陀仏、御大師様の廟で殺されるからは、極楽往生疑いなし、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。一同の者、よく見い、人を斬るのは、こう斬るのじゃ」
 上段に振りかぶった。小太郎は、石に、背をつけたまま、だるそうに、正眼に構えた。牧が
「不憫な奴じゃ」
 と、近づいて呟いた。山内は、ちらっと、その方を見ると、もう一足、小太郎に近づいた。そして、左右の浪人へ
「よく見い。真向から二つになるぞ」

 と、いった。小太郎は、半眼で、じっと、構えたまま、身動きもできなくなっていた。

「逃げえ、小太郎――犬死してくれるな」
 それは、墓穴の中から、死人が呼びかけたような声であった。斬倒された仙波八郎太が、左手に刀をついて、立上っていた。
「小太郎」
 斬割られた頭から、どす黒く、血と混った脳漿《のうしょう》が、眼から、鼻の脇へ流れて、こびりついていた
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