物に凭れて仮眠をしたり、身体を半分に折って、隣りの人とくっつき合って寝たりしていたが、初めての乗合船で、人々の中で――それから、明日の役目を思うと、眠れなかった。乗合衆は、いろいろの夜風を防ぐものを持っていたが、二人には、それさえなかった。船頭が、薄い蒲団を貸してくれたので、それを膝へかけて、二人は、一晩中坐りつづけていた。
人々が起き出して、川の水で顔を洗う頃になると、八軒家、高麗橋《こうらいばし》から出た上り船が、そろそろ漕ぎ上って来た。その中に、士ばかりの一艘が、杯をやり取りしていた。
「朝っぱらから、結構なことや。何んやの、かやのいうて、人の金を絞り取りよって――」
「今度の御用金は、鴻池《こうのいけ》だけで、十万両やいうやないか。昔やと、十万両献金したら、倍にも、三倍にもなる仕事がもらえたけど、当節は、ただ召上げや。薩摩なんて国は、借りた金を、何んと、二百五十年賦――踏み倒すようなもんやないか。今に、徳政ってなことになって、町人から借りた金は返さんでもええ、ということになりよるで。こう無茶したら、大きい声でいわれんが、長いことないで。京、大阪で、お前、大名への貸金が、千六百万両、これを、二百五十年賦にされたら町人総倒れや。町人が倒れたら、武家だけで、天下がもつかえ」
七瀬も、綱手も俯向いていた。
「あの船は、お前、薩摩やで――」
上り過ぎた船を、一人が眺めていった。
「そや、薩摩や、あいつが、大体いかんね」
七瀬は、そっと、顔を上げて、その船を見た。そして
「綱手」
と、口早に囁いた。
「あれは――」
七瀬は、顔を左、右に動かして、遠ざかり行く船の中から、何かを求めていた。
「母さま」
「牧では――牧ではないかしら」
綱手は、延び上ったが、牧の顔を知らないし、もう、船は、かなり遠ざかっていた。
「よく似た顔じゃが――」
七瀬は、人影で見えぬ牧の顔を、もう一度確めようと、いつまでも、眼を放さなかった。船頭が
「着くぞよーう。荷物、手廻り、支度してくれやあ」
と、叫んだ。
江戸へ出る時に見た荒廃した蔵屋敷の記憶は、新しい蔵屋敷の美しさに、びっくりした。
十年近い前に見た邸は、朽ちた板塀、剥げ取られた土塀、七戸前の土蔵の白壁は雨風に落ち、屋根には草が茂っていた。邸の中へ入ると、若侍達が薄汚い着物の裾を捲りあげて、庭の草を刈っていた。草取り
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