、十年、二十年の命をちぢめるかも知れぬ。もし、わしが、三十年、五十年、平穏無事に暮せるなら、お前にも、秘法を譲ろうと思うたが、時が無《の》うなった。学んで得られる道でもなく、言って伝えられるものでもない。以心伝心と、刻苦修練と、十年、二十年、深山に寒籠りをし、厳寒の瀑布に修行し、炎天に咀し、熱火の中に坐して、ようよう会得しても、平常には何んの用も為さぬ。家に火事が無ければ、百年でも、二百年でもそのまま心に秘めて、ただ、人知れず伝えるばかりじゃ。今度、調所殿の命を受けて、思い立ったのも、この秘呪を、秘呪の効顕を、広く天下に示さんがため――天下は広大で、効顕さえ現せば、後継者も現れようし、門人等も懸命になろう。調所殿の前ながら、世の中は、実学と理学ばかりで、理外の理が、侮蔑されている。わしは、最後の兵道家として、命にかけて、この理外の理を示したい。天下のためでもなく、御家のためでもない。己の職のために、悪鬼となっても、秘呪の偉効を示したい。もしも、呪法のためか、刺客のためか、死ぬか、殺されるか、何れにしても、長くはあるまいが、お前は、調所殿の仰せの通り、町人になる覚悟で、御奉公をせい。決して、父の後を継ぐとか、わしのように、流行物に反対するとか、愚かな真似をするな。万事、調所殿の御指図に従って、世の中に順応せい。わしの子で、兵道の家に生れたが、決して、わしを見習うな。これが、お前に与える、わしの遺言じゃ。忘れるな」
 静かに、だが、力のある言葉で、牧は教訓した。

「さあ、もう、八軒家やで」
 船べりに凭れて、ぼんやりと、綱手の横顔に見惚れている朋輩の肩を揺さぶった。
「知ってるが、御城が見えたら八軒家や。きまってるがな」
「判ってたら支度をしんかいな。何んぼ、見たかてあけへんて」
「見るは法楽や。俺は、お前みたいに、盗見なんぞしえへん。咋夜《ゆうべ》から、じっと、こう見たままや。何遍欠伸をしやはったか、欠伸する時に、お前、こう袖を口へ当てて、ちらっと、俺の顔を見て、はあ、ああああ」
「人が、笑うてはるがな。ええ、こいつは、少し色狂人で」
 乗合の爺さんが
「いやいや、あんな綺麗な人を見たら、わしかて、色狂人になる。こう、袖を口へ当てはって、ふあ、ふあ、ふあ」
 四辺の人が吹出した。七瀬と、綱手とは、伏見から、三十石の夜船に乗って、一睡もしなかった。乗合衆は、船べりの荷
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