、もし自分等二人と落合うものと信じて、もし、ここを離れなかったなら? それが偽りとわかった時、自分達は、何うなるか?
八郎太と、小太郎とが、馬に乗って走っているのを描いた。夜道の雨の中を、強行して行く姿を想像した。そして
(無事で、牧を探してくれますよう)
と、誰に、祈っていいかわからない祈りを捧げた。
(もう一度、逢えますよう。無事な顔が見られますよう)
もう一度、夫の顔、子の顔が見られたなら、もう二度と、こんな未練な心は起さないと誓った。四ツ本が、玄関へ来てからの、急な追放、ろぐろく口も利かぬうちに、闇の中で別れてしまったことが、幾度、思い直してみても、悲しかった。
(こんな雨の夜、川止めの日、ゆっくりと、別れの言葉を交したなら――)
と、思うと、しとしと降っている雨の音までが、自分等を、悲しませたり、羨ませたりしたさに、降って来たもののように感じられた。
「綱手、考えても無駄じゃ。臥《やす》みましょうか」
七瀬は、こういって、うつむいている綱手に、言葉をかけた時、薄汚い婆さんが、濡れた袖を拭きつつ
「御免なされ」
と、入って来た。そして
「おお、美しい女中衆じゃ、年寄一人だから頼んます」
と、図々しく、坐った。二人は、この婆が、自分達の家を呪う悪魔の化身のように思えた。
大阪蔵屋敷
施米に群れている群集のどよめきが、調所の居間まで、伝わって来ていた。
米が一両で、六斗だ。その高い米でさえ、品が少く、城代跡部山城は、大阪からの、米の移出を禁止してしまった。それでも、一両で六斗だ。
天保三年に不作で、四年の米高に暴徒が起った。五年の秋には、暴騰して、囲米厳禁の布令が出て、米|施行《せぎょう》があった。江戸では、窮民のお救い小屋さえ出来た。
調所は、金網のかかった火鉢へ手を当てて、猫背になりながら、祐筆に、手紙の口述をしていた。
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諸国和製砂糖殖え立、旧冬より直段《ねだん》、礑《はた》と下落致し、当分に至り、猶以て、直下《ねさ》げの方に罷成り、
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遠雷に似た響きがした。群集のどよめきが、一寸、高くなった。調所が考え込んだので、祐筆が
「何んの音で、ござりましょうか」
と、云った時、又、物のこわれるような音が秋空に立ちこめて響いた。廊下に、忙がしい足音がして、障子越しに
「見届けて参ります
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