た文句をぬかすぜ」
 旅人は、立上って廊下へ出て来て、二人の部屋をのぞき込んだ。
「今晩は」
 二人は、返事をしないで、番頭に
「では、そのお方お一人だけ――」
「へいへい、決して、もう一人などとは申し上げません。有難う存じました。それで、お唄の旦那」
「いやな事いうな」
「済みませんが、お侍衆を、お二人、割込ませて頂きます」
「侍?」
「薩摩の方で、今日の喧嘩のつづきでさあ。後から後詰の方が、追々参られるそうで」
 七瀬と、綱手とは、身体中を固くして、不安に、胸を喘がせかけた。

 隣座敷へ入った侍が、湯へ行くらしく、廊下へ出ると同時に、七瀬が、障子を開けて、その前へ進んだ。侍は、立止まって、七瀬を見ると
「おお」
「ま――御無礼を致しました」
 七瀬は、一足、部屋の中へ引っ込んだ。
「お一人かな」
「いいえ、娘と、同行でございます」
「八郎太殿は」
「夫は、何か、名越様と、至急の打合せ致すことが起ったと、途中から江戸へ引返しまして、もう、追いつく時分でござりますが、何う致しましたやら」
「ははあ」
「丁度、幸の川止めで、明日一日降り続きましょうなら、この宿で落合えるかと存じております。貴下様は、御国許へでも?」
「うむ、国許へ参るが――小太郎殿も、父上と御同行か」
「はい」
「今日の昼間、ここで、果合があったとのこと、お聞きかの」
「何か、大勢で――」
「いや、一風呂浴びて――何れ、後刻、ゆっくり――妙なところで、逢いましたのう」
 侍は、振返って、そういいながら、微笑して、階段を降りて行った。
 七瀬と、綱手とは、人々から聞く、二人連の侍とは、確かに、池上と兵頭にちがいなかったし、その二人を援けたのは、きっと、益満であると考えた。そして、池上らと、益満とが、この辺にいるとすれば、八郎太父子も、この辺にちがいないと、考えられた。そして、そう考えてくると、夕方近くから降り出した雨が、自分等二人の涙のように思えた。雨さえ降らなかったなら、明日か、明後日は、八郎太に追っつけるのに――箱根で遅れ、ここで遅れ、天も、神も、仏も、何処までも、仙波の家だけは、助けてくれないもののように思えた。
 追手だの、伏勢だの、役人だの、いろいろの者が、自分達の周囲に潜んでいるようにも感じた。七瀬は、二人の侍を、敵党の者と知って、仙波父子二人が遅れて来ると、欺いたが、うまく欺きおおせるか
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